『私は肉屋の奥さん、貴方が主人、貴方は弟子、貴方は豚の役ね』
『じゃあまず肉を作らなきゃ。豚を縛って上から吊して…』
『血を皿にちゃんと受けてね。ソーセージをつくるから』
『じゃあ、始めるよ?』
声のした方を見据える。
むせかえるような血の臭いに吐き気を覚えるが、吐いている場合ではない。
こみ上げてくる酸っぱい物を飲み下す。
気持ち悪い。
奥の陰が動いた。
「誰…アンタ…」
深司はいつも通りの淡々とした声で呟いた。
ふーっと息を吐く音がする。と同時に煙りの…煙草の香りがした。
硝煙かと思ったのは、煙草の煙りだったのだ。慣れた香りに気づかぬほど動転していた自分に舌打ちをする。
煙草を吸う奴…?
「阿久津仁…?」
闇に慣れた目が映したのは、山吹中のジャージを纏い、銀髪を立てた男が煙草を捨てるところだった。
地面に落ちたはずの煙草が、何故かジュッ!と音を立て、煙を上げるのを止めた。
それがどういうことを示すか。
つまり、彼の足元には…
「…何、アンタ怪我でもしたの?」
噂や試合模様をみる限り、うっかりなんて怪我はないはずだ。
誰かを殺ったか、誰かにやられたか。
言葉では後者を選んだはずなのに、体はジリッと後ろに退いた。
阿久津は、伊武の言葉を鼻で笑った。
「…なんだよ…」
根目上げる伊武の質問に阿久津は答えない。
阿久津はスタスタと出口…伊武の方へ近づいてきた。
「!」
「…あ?殺る気かよ」
体を緊張させる伊武に、阿久津の眼力が飛ぶ。
ドスの効いた声は、その時は容赦はしないと言わんばかりであった。
「なに…?」
「あ?」
「…アンタは殺る気なんじゃないのかよ…?」
阿久津は何も言わない。
ただ低く、どけ、と言った。
更に近づいた圷をみて、伊武の喉がひきつった。声が出なかったことに安堵した。
阿久津はシャワーでも浴びた様に濡れていた。
ただし、真っ赤に。
「追ってきたら殺すぞ」
そう言って、スタスタと歩いて出て行った。
硬直したまま見送って、油を差し忘れたブリキのような動作で、今まで彼が座っていた場所をみた。
よくよく見れば、誰かが転がっているように見える。
黒い。
闇に慣れた目に見えるのは、頭部とおぼしき場所に巻かれた白い…タオル。
認識した瞬間、弾かれたように伊武はソレに駆け寄った。
足元でバシャンと音がなるのが忌々しい。
「石田…っ」
うつ伏せに倒れている彼の後頭部からは、デカデカと斧が生えていた。よくしっかりと刺さっているものだ。
あまりにもしっかりと刺さっていて、嘘臭かった。
ハロウィンシーズンになると、店頭でこういった帽子が売られたりしている。
近くで見れば、白いタオルは大半がどす黒く染まっていた。
闇の中だからかも知れないが、赤いとは感じれなかった。余計に嘘臭い。
臭いだけが本物だった。
斧にふれた。冷たい。
刺さっている斧が痛そうに見えて、伊武は抜くことにした。
手にも足にも力が入らず、苦労した末抜けた反動で尻餅を着き、危うく二の前になる所だった。
頭部から抜き取った瞬間、血しぶきが上がった。
絶命したときとは違って、愛想のように吹いたそれは一瞬で、しかしそれは伊武に現実だと教えるのに十分だった。
伊武は込み上がってきた衝動を押さえられずに嘔吐した。
人を見て嘔吐するなよ、と小突かれたかった。
誰かに小突かれたいと思うのは初めてだった。
「阿久津…仁……っ」
は、黙り込んだ不二に、錠剤とカプセルを一つずつ渡した。
これは…?と不二が顔を上げると、は不器用なウィンクをして見せ、
「先に寝ていいよー。後で交代してね」
そう言った。
答えになっていない彼女の言葉を聞き、わかった、と頷くと、カバンから取り出した飲料水で薬を飲み込んだ。
「…じゃあ、おやすみ」
「おやすみ〜」
不二は横になりながら、こんな状況じゃ寝れやしない、と思ったのだが、薬のせいかあっさりと睡魔に飲み込まれた。
はそれをじっと見ていた。
海の音が、辺りを支配している。
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