文字























「寧将軍〜、今度の戦場の地図と敵国力の詳細です。

 あと、前回の報告書を午後の軍議に間に合わせろ、と右都督殿が」

「げ。周の旦那は別に何も言ってなかったぞ!」

「だから、わざわざ右都督殿が私に言ってきたんでしょうが」



 右都督とは、程普と言う名の老将で、孫策の父・孫堅の頃より呉に仕えている古参の将のことである。

 書物から顔を上げた甘寧は、のよろしくない報告を聞いて呻いた。

 は同情の色も見せず、むしろ「まだ出してなかったのか」と言いたげな視線で、持ってきた竹簡を机に載せた。



「お前書いておいてくれよ〜」

「馬鹿言わないでください。私と寧将軍じゃあ立場が違いすぎますし、第一私は字が書けません」

「……お前、段々陸遜に似てきたな」



 肩をすくめて甘寧は呟いた。ため息を吐きながら、未記入の竹簡を取り出す。

 墨壷に筆をいれ、特に思慮もせずにサラサラ書いていく姿は、さながら文官のようで、は少し笑ってしまった。

 まったく、こんな簡単に書けるのなら、さっさと終えておけばよかったのに、と思わざるをおえないのである。


 文官であり武官、また武官であり文官、と、呉はそういった将が多い国である。
 そもそもは、故・孫堅の時代より決まった軍師がいない、と言うのがその傾向の現れ始めなのだろう。

 周諭や陸遜は、どちらかと言えば文官なのだが、武将としても申し分ない力を持っている。

 甘寧とて、外見からは想像出来ないが、そこらの文官より勉学の才を持っている。

 学問するのが楽しくなったが、どの国にも勤勉な水賊は好ましく思われず、流れ流れてこの国まで来たらしい。



「あー…さっきは聞き流したけどな、なにお前字書けねぇの?」



 書き込みながら、問うてくる甘寧に、はそっぽを向いた。

 その態度を、是、と受け止めた甘寧は、



「字くらい勉強しといて損はないぜ。難しいわけでもないしな」

「人には得手不得手があるんですよ」



 先の戦の資料を開いて、横に並べながら、は言った。

 そして、ちらりと竹簡を見て眉を顰める。



「寧将軍、そこはサンズイではなくキヘンじゃないですか?」

「ほ?……あー…くそ」

「一刻ほど後にまた伺いますから、それまでに書いておいてくださいね。では、失礼させていただきます」

「あいよ」



 供手して辞退するに、指摘された部分を黒く塗りつぶしながら、甘寧はヒラヒラと手を振った。

 パタン、と閉まった扉の音を聞いて、甘寧は筆の柄の先で頭を掻いた。



「得手不得手ってなぁ…」



 読みはできて、まったく書けないことはないだろうに。

 甘寧はわざと気づかない振りをしたが、腑に落ちないことを放って置けるほど、少ない好奇心ではなかった。




















「で、なんで私のところに来るんです?」



 が退室して半刻後、甘寧は陸遜の作業部屋に居た。

 甘寧のところより、資料も書簡も多いのは、軍政だけでなく内政も任されているからである。



「うん?だって、お前ら幼なじみだろ」

「幼なじみと言っても、何でも知ってるわけじゃないですよ」



 甘寧を迎えて、侍女に茶を申しつけると、陸遜はさっさと卓子に戻り続きを書き始め、以降ちらとも甘寧の方を見上げない。

 仕事中にやってくると、決まってこの態度で接客されるので、別段気にはとめなかった。



「けど、字なんて普通の奴は習いに行けねぇだろ?ましてや女は」



 書物は高直、そして今の時代は民に困窮を与える戦乱。

 宵越しの金は持たぬ、と格好よく言っていなければやっていられない世の流れ。

 実際は、持たないのではなく、持てない、のである。


 兄弟が多ければなおのこと子守や出稼ぎで時間をとられ、運良く出稼ぎ先で教養を得る以外、学屋にいける子供は少ない。

 女は将来家からでることはないので、殆どのものが受けれないことが多い。


 陸遜は、そうですね、と軽く相槌を打つのみで、視線すら上げなかった。

 教えれば、また次の機会を持とうとするのが目に見えているからだ。入り浸られては仕事にならない。


 陸遜のそうした態度もいつものことなのだが、甘寧は違和感を感じてまじまじと陸遜を見た。

 さらさらと左手で書簡に書き付ける陸遜。

 原因がわからないまま、気づいたことを口にする。



「・・・・なぁ。お前って利き腕どっち?右?左?」

「・・、両利きです」



 いきなり話が変わったから、以外の理由もありそうな一瞬の動揺を甘寧は目ざとく見つけた。

 話の先を読む、回転の速い頭が仇になったようだ。

 甘寧が陸遜の右手を引っつむと、陸遜は顔を上げて顔を顰めた。非難の色が浮いている。

 手のひらには、無数の切り傷。いくつかは瘡蓋が出来ており、いくつかは甘寧が引っ張った為剥がれ落ち、血が滲み出した。



「何握ったんだよ」

「血、出さないでくださいよ」



 答えになっていない言葉を返し、捕まえられた右手をやんわりと振りほどき、手拭い代わりにしていた布を引き出しから引っ張りて握らせた。

 書簡についたらどうするんですか、と小さく呟く。


 追求するな、と暗に訴える目に、甘寧は退いた。深い傷だったのだろうが、見たところ治りかけではあったし、熱も持っていなかった。

 どか、っと椅子に座り直し、侍女が入れてくれた茶を啜る。


 それを見届けた陸遜は、再び仕事に戻り、ややあって口を開いた。



「…孔明老師が、ほんの少し手ほどきされたんですよ」



 一瞬何を言っているかわからなかったが、一つ前のの話題か、と検討が付いて、ほぅ、と頷く。



「臥龍って呼ばれてる奴にか、そりゃすげぇな」

「川に流された時、老師に拾われたそうで」

「…そりゃすげぇな」



 に関して甘寧が問いたがる理由は、こういう部分にもある。

 必ずひどい目にあっても、誰かに助けられている彼女の生い立ち。聞いていて少しも飽きない。



「川の氾濫を危惧して堤を築いて居たのですが、その年は雨期が予想より早くきましてね。

 終盤は雨の中の作業になったのですが、その中に何故かもいて」



 男でも辛い仕事を手伝いにきたのは天晴れだが、結果が雨で滑って転んで堤から川へ転がり落ちたのでは仕事を増やしに来たようなものだった。

 彼女らしいといえばらしい昔話に、甘寧の頬が思わず緩んだ。



「まあそのときにある程度は学んだようですよ。ただ文字が…」

「失礼します、陸東曹令史。府庫より例の沼の資料を持ってきましたー…ってあれ?」



 図らずも、陸遜の言葉を遮る形で突入してきたのはだった。
 足で扉を開けた格好で、両手にいっぱい書簡を抱えたは、甘寧を認めてきょとんとした。



「いよぅ、お前字下手くそなんだって?」



 手を上げてニヤニヤ笑いながら、思いついた『得手不得手』の意味を掛けてみると、カマが当たったのか、手にしていた物をバサッと落とし、は凍り付いた。



「な…っ!は、伯言!ひどい!バラすことないじゃん!」

「別に墨壷に落としたミミズを紙の上で踊らせたような字なんて言った記憶はありませんよ」

「ゆってるじゃんほらー!!」



 ひーどーいーっ、と頭を抱えてのたうつを、甘寧はゲラゲラと笑い、陸遜は無視して仕事を進める。



「なぁ、ほら、ちょっとココに書いてみろって」

「笑いながら言わないでくださいよ!いやに決まってるじゃないですか!!!」

「ほら、あれだ。独創過ぎて機密文書に使えるかもしれねぇじゃねぇか」

「ああ。いいですね、それ」

「なに乗り気になってんの伯言もー!!」



 抵抗をl試みたであったが、二対一ではどうにも分が悪い。ましてや相手二人は上官である。

 渋々と言った感じに、なるべく画数の少ない簡単な文字を、失敗は許されない書簡に書く面持ちで、は差し出されたものに書き付けた。



 結果。

 甘寧大爆笑。



「ひ、ひひっ、こりゃあいいや!早速周の旦那に見せてだな」

「ぎゃー!!!もうやめてくださいだからいやだっていったんじゃないですかー!!!!!」


 は甘寧から書付を奪うと、「燃やしてきます!」っと顔を真っ赤にして飛び出して行った。怒りと気恥ずかしさの為だろう。

 それを、あひゃひゃっ、と笑いながら甘寧は見送って、ふと目線だけを陸遜に向けた。


 そこには、先ほどまでの陰鬱な、威嚇にすら近い空気は払拭され、口元にうっすらと笑みを浮かべる青年がいた。



(笑いたけりゃ笑えばいいのに。このヒヨコはよー・・・)



 生きれば生きるほど、無意識の笑い方を忘れて行ってしまうのに。

 大人になりたいと背伸びする子供ほど、大人になった時に時間の残酷さを思い知るのだから。












 きらきらと輝く光が差し込む部屋。

 明日もそうであると断言できる者は、神より他にいない。