反魂香

























どこからか甘い匂いがする。



「なあ、



 薄闇から声がして、目を開く。

 体が動かない。

 顔は動くので首を回して状況を見る。どうやら私は、縄で寝台に縛り付けられているようだ。







 再度呼ばれて、声のする方に頭を巡らす。

 闇になれてきた瞳を凝らすと、入り口付近に誰かが立っているのがわかった。

 その人陰が微かに揺れる。何故か、微笑んだのだとわかった。

 夢の中のように柔らかい空気なのに、その人はこちらに近づいてこようとはしなかった。



「土鈴は渡してくれたか?」



 初め、その言葉の意味が理解できなかった。

 なんでそのことを知っている。

 土鈴のことを知ってるのは、私と…私…と…?

 そのことに思い至り、頭の奥がキンと痺れる。

 顔を覆いたい。せめてうつ伏せになりたい。いっそこの場から逃げ出したい。



「は、く…ぅ…っ」



 だらしない涙声を、歯を食いしばってかみ殺す。嗚咽を漏らさないようにするため、自然と息が荒くなる。



「どうした?なんで泣いてる」



 心配そうに言いながらも、近付いてくる気配はない。

 この人を私は知ってる。手に残っている生々しい感触。慣れたはずのあの感触が、血の気が引くほどおぞましいと感じた。



「殺、して…っ」



 伯符様。討逆将軍。

 わが主。

 殺してしまった。



「こ、ろ…して…っ」



最早、私には死罪しか残されていない。そしてそれが望みで、唯一の救いだ。



「それは、悪かったな」



 甘い香りと共に、冷たい手が頬を拭った。人影は依然と近づこうとはしていないのに。



「いや、俺としては、死ぬつもりなんてなかったんだよ。悪いけど、まだまだ俺の方が強いしな」



 私が感じた矛盾を払拭するように、伯符様は語り始める。



「でもよ、やってみたらお前意外と成長してんのな。まあよく考えたら、俺が知ってるお前なんて、あの怪我した時だけだし」



 甘い香りに、頭の芯がぼんやりし始める。それでも降ってくる伯符様の言葉は、しっかりと聞こえる。



「だから楽しくてさ、つい宇吉の野郎がいるのを忘れちまってさ。…あー、公謹に怒られちまうなー…」



 ガリガリと頭を掻く様子は、伯符様そのものだった。



「あー、その、なんだ、俺を刺したのは確かにお前だが、血を止まらなくさせたのは宇吉なんだよ」

「…ぇ」

「だからさ、悪かったな。勝負の横やりを許した挙げ句、お前に殺されないで、宇吉に止め刺されてさ」

「いえ、私は殺したくなどありませんでした…」

「そうなのか?」

「そりゃ、そうでしょう」



 伯符様は、少し悲しそうに笑った。



「じゃあさ、泣くのも、俺を思うのも、もう終わりにしな」



 甘い香りがする。



「俺に公謹がいるように、お前にだって陸遜がいるだろ」



 頼むよ、と言われた。

 あらかじめ定められていたかのように、その言葉を皮切りに、私の意識は闇にすとんと落ちた。









 目を覚ましたら朝だった。

 いつもと同じ部屋には、伯符様の面影は一切ない。相変わらず拘束されている私。明るい窓の外。和やかな鳥の囀り。

夢…だったのだろうか?

微かに自分から香る、あの甘い匂い。頬で不自然に固まった涙の残り滓。それだけでは、夢とも現実とも区別が付かない。


でも…。



…?起きていますか?」



 垂れ幕の向こうで声がした。伯言だ。



「うん。起きてるよ」



 私が答えると、伯言は若干驚いたように入ってきた。



?」

「うん」

「…今日は、元気そうですね」

「うん」



 伯言は私に近づいてきて、様子を伺ったあと、そっと頭を撫でてくれた。



「伯言」

「なんですか?」



 伯言と呼んでも怒らなかった。


「私まだ生きてられる?」

「…ええ。貴方の怪我は、名誉の負傷と言うことで扱われてますから」

「そっか。甘いねぇ、周諭様は」

「……」



 私の言葉に伯言は目を伏せて黙った。

 まあ、殺してもらえないだろうとは薄々わかっていたけど。

 あの場の状況を知ってるのは、私一人。

 そのことに対する落とし前を、つけなけばいけない。



「伯言」

「ん?」

「縄解いて」

「…暴れないって約束できます?」

「大丈夫大丈夫」

「うーん…」



伯言は苦笑いをして、困ったように首を傾げた。



「じゃあ、縄を解く代わりに、私を伯言の部下にして」



 私が笑顔で妥協案を提示すると、それなら、と言って、縄を解き始めた。



………………。



「なんでよーっ!なんでそんなに嫌なのーっ!!」

、暴れない約束でしょう」

「伯言が悪い!!」

「はいはい」


 私を軽くあしらいながら、それでもホッとしたように笑う伯言に、私も笑った。

 我ながら現金なものだと思う。生きてられる理由が出来ただけで、笑顔を作ることがこんなにも容易いなんて。

 なにも聞かない伯言は偉い。そして、優しい。







 宇吉仙人。お前の腑を生きたまま喰いちぎってやる。




 現在、私がこのようなことになっている訳は、数日前に遡る。