彼女は、人差し指を私の唇に触れさせながら微笑んだ。



















 一時間目が終わってから休み時間の騒がしい間に、はひっそりと教室に現れた。

 多分生徒の大半が、いつ彼女が席に座ったのか分からなかっただろう。

 音もなく平然と現れ、スタスタと席に着き、まるで今までそこに居たかのように、机に突っ伏して…なんと寝てしまった。

 隣の席の柳は、なかなか登校しない彼女を気にしていただけに、教室に入ってきた時から彼女に気付いていたが、話しかけるのは止めることにした様だった。

 次の授業の準備をし、机に出した教科書類の中で一番薄い本を取って、一度だけの後頭部を軽く叩いた。

 「ぅ」と小さく呻くと、は頭だけ動かし、腕の上にかろうじて左目を持って行き柳を瞳に映す。

 柳は相変わらずの目を開いているか閉じているかわからない表情で彼女の視線を受け止めて、に「次は英語だぞ」と告げた。



「…私当たる?」



 口が腕で隠れているせいか、多少くぐもった声でが問いかける。



「当たらないからと言って、授業中寝ていい理由にはならない」



 いつもと様子が違うことには触れず、至っていつも通りにに接する柳。

 おおっぴらに様子がおかしい時には、彼は余計な詮索をしない。平静を装って凹んで居るときは、迷わず声をかけるが。


(なにをしているんだ、仁王…)


 彼女が無言で悲しむ原因は、いつだって仁王だ。無論、本人にその自覚はないが、柳はそれを知っている。

 去年彼女と同じクラスだった。

 去年も仁王は似たようなことをやった。

 その時は、今回と違って確かに以外の女性に感心を持っていたような気がしたが、あれが真実どうだったのかは柳も知らない。

 あの時はまだ柳ものことをあまり知らず、仁王と仲のいい女生徒ぐらいにしか思っていなかった。

 付き合っていたのが振りだと言うことは、二人の様子を見ていれば容易に知れたからだ。

 ただその時はもうすでに、の悲しみの琴線に触れられるのは仁王だけだった。腹立たしいことには憤り、嫌なことは大げさに嘆くが、悲しいことは周囲に隠す。

 もしかしたら意外と人と言うものはそうなのかも知れない。

 しかし、彼女のそう言うところに気付いてから、柳は彼女に興味を持った。

 興味が恋に変わる出来事は、今から思えば幾つかあったが、最大の要因は、再び二人が振りを始めた事だった。

 腹立たしくて、少し悲しかった。テニスで赤也に八つ当たりしてしまったのを覚えている。

 にとって仁王は特別だ。


(それでも構わない。俺にとっても精市や弦一郎は『特別』と言える。と彼ら、それは『特別』でも比べることが出来ないものだ。特別だからと言って、それが恋愛感情であることは必ずしもない)


 ただ、異性の場合、ない、と言うことが極端にすくないことは事実だ。

 不利な勝負だと分かっている。

 どんな勝負でも、勝ちに近づけることができる自信はある。しかし勝ちを取るためには、いつどんな時も不確定要素が必要である。

 今回は、近づけるだけの猶予はない。だから、不確定要素を味方に付けなければいけない。

 それは、大博打にも等しい行為。

 ブツブツ言いながら鞄から教科書類を取り出し始めるハルハラを見ながら、余裕も無いのに仁王の失態を嘆く己に、柳は少し苦笑いをした。






















 仁王が一人に成りたいと思っているときは、探しても決して見つからない。

 見つけてもらいたい時は、その対象が一人でよく行く場所でうずくまっている。

 そして泣きたい時は、今みたいに女の子に囲まれて髪の毛をいじられても、何も言わずににこにこしている。


(これは…重症ですね…)


 同じクラスの柳生は、猫が起こす気まぐれの様に人当たりが良すぎる仁王が心底心配になった。

 四限目まで我慢していたのだが、昼休みになりどうにも居たたまれなくて柳生は仁王に話しかけた。



「仁王くん」

「おー柳生、どうした?」

「ちょっとお付き合い願いたいのですが」



 仁王くんの席を囲んでいた女子から不満の声が上がる。

 こんな状態の仁王は滅多にないのに、と言わないでも顔に書いてある。

 女性を落胆させるのは心苦しいが、今は親友の心の平穏が最優先事項だ。



「柳生」

「はい」

「…みんなが見とるのに、恥ずかしいのう」

「…は?」



 仁王は、ポッと頬を染め、恥ずかしいポーズを決めた後、



「わしも柳生のこと愛しとうよ」



 と、にっこり笑って言った。

 途端に周囲の女生徒から色めき立った声が上がる。

 柳生は、こういう人の感情をからかうような冗談が好きではない。



「仁王くん」

「みんなごめんな、愛しのダーリンがお怒りだっちゃ。そんじゃな、あでゅー」



 怒る柳生の二の句に被るように、仁王は席から立ち上がり、早口でまくし立てると、ウィンク一つを置きみやげに、柳生の腕を引いてズカズカと教室を出て行った。

 仁王に先導される形で連行されてはいるものの、仁王に行きたいところは無いようだった。

 ただ階段を降りようとしている仁王に、柳生は言う。



「部室に行きましょう、仁王くん」



 答えずに、ただ頷いて了承の意を示した。






















 部室の鍵を柳生が閉めている間、仁王はベンチに寝転がった。

 部室はいつだって汗臭い。どんなに気を逸らしても、仲間の存在を突きつけられる。

 だからこそ居心地が良い。

 鍵さえあれば、いつでも利用するのに。

 そこでふと気付いた様に、仁王は柳生を振り返る。



「鍵はどうしたんじゃ?」

「柳くんが忙しそうでしたから、今朝は代わって鍵を掛けたんです。職員室には返し忘れました」



 もしや昨日からの計画的犯行か?と思ったが、柳生が自分の利益の為に行っているわけではないのは明白で、仁王は「そうか」と笑って返事だけをした。

 締め切ると部室は暑いので、カーテンを引き少し窓を開ける。



「仁王くん、一つ聞きたいのですが」

「おう」

さんとは何故別れたのですか?」



 黙っていれば仁王はこの事について一切吐き出さなかっただろう。

 今の状態の原因の全てではないだろうが、このことがきっかけだろうと柳生は予測した。

 秘する想いが正しい時もある。だが、蓄積していく不安や戸惑いは、吐露しなければ心どころか体も損なうことがある。

 多少不況を買っても構わなかったが、こうして告悔室さえ用意すれば、彼が安心して内心を吐露できることを柳生はそれなりの付き合いの中から学んだ。

 神父役に選ばれたのは、幸か不幸か。時々そんなことを柳生は思う。

 仁王は、仰向けになって腕で顔を隠した。

 柳生は、デスクの椅子を彼の近くまで引っ張って座った。



「柳生が怒るだろうから、今まで秘密にしとったんじゃが」

「…秘密?」

「実は、とは付き合うとらんかったんじゃ」

「は?」

「振りじゃ。真似事しとっただけじゃよ」



 柳生は眉をしかめたが、それだけで何も言わなかった。



「はじめは、惚れてたからそういうゲームを始めたわけじゃなかった。一年の時、俺はレギュラーじゃなかったが何故かモテとったじゃろ?」

「そうでしたか?」

「そうでしたぜよ。そん中にちょっと強引な女がおっての、そいつを諦めさせる為に作った偽物の彼女がじゃった」

「どうしてそんなことをしたんです?」

「近かったから」

「近かった?」

「言ったじゃろ?その時は好いた惚れたもなかった、でもは俺に近かった、例え『ごっこ』だとしても図にのらず普段通りに過ごしてくれると思った。…実際そうじゃった」

「…でも今は、好きなんでしょう?」



 柳生の静かな問いに仁王は答えない。



「柳生、すまんの。今まで隠しとって」



 答えない問いに柳生は追求しなかった。



「…こっちを見て欲しい」



 譫言のように仁王が呟く。

 柳生は聞かない振りをする。



「…好きじゃ、好いとう、愛しちょる、好きじゃ、大好きじゃ」



 ブツブツ睦事を呟く様は、まるで廃人か何かのよう。

 痛々しいその様を、柳生は見ない振りをする。



「ずっと好きじゃった、愛しとった。だが、こう言う意味で好きだと思い知ったのは最近じゃったんよ」



 言い訳をする。

 許しを請う悲痛な想い。

 しかし、柳生は許す権限を持たない。

 ただ聞き役に徹し、彼の秘密を心の奥底に錠を掛けて蓋をする。



「手放したくなかった、そばに置いて置きたかった。…ああ、そうじゃ、お前の言うとおり俺は後悔しとるよ、。お前さんにずっと甘えとった。気付いてからは、お前さんに気付いて貰うことを願っていた。…好き、も、愛してる、も、言葉にしても俺の言いたいことがお前さんには伝わらなくなってしまうまでずっと…」



 脈絡がないことを仁王は呟く。

 傍にいる柳生に聞かせる気はない。説明する気もない。

 だから理解しなくて良い。

 聞いてくれるだけで良い。聞かせてくれるだけで良い。

 それだけでお互いの心労が軽くなる。

 柳生に取ってもこれは自己満足。



「柳生」



 仁王が柳生を呼ぶ。



「なんでしょう」



 漸く神父役を降りれた柳生が、仁王の呼びかけにゆっくり答える。

 仁王は腹筋を使って、上半身をひょいと起こす。

 その顔はいつもの仁王に戻っていた。



「例えばの話じゃよ?姉を好きになってしもうたらどうする?」

「……仁王くん君は」

「だぁから、例えば、と言っとるじゃきに」

「そう言う事は考えたくもないのですが…」

「…プリ。じゃあよ、義理の姉ならどうじゃ」

「どうもこうも…。まあそれなら家族の縁を切れば想いを告げることはできますね」



 柳生の苦々しい表情に向かって、指をパチンと打つ。

 猫だましを食らった柳生に、仁王は畳み掛けるように指を突きつけ、



「そういうことじゃ」



 記憶を掘り返す。

 柳生は最初に彼になんと問うた?

 ――つまり、そういうこと。

 なるほど、と得心がいく反面、苦笑いを禁じ得ない。



「ややこしいことをしますね。買いかぶりすぎではないですか?」

「いや、前普通に正攻法で試したんじゃが、演技の一環だと思われた」

「なるほど。まあ自業自得ですね」

「わかっとうよ。・・・参謀も全てお見通しじゃ」

「柳くんが?」

「『見通せるようにしといた』ことだけわかっとるようじゃし、と仮の付き合い遊びにも乗ってきたまではよかったんじゃが・・・まさか本気になるとは」



 思わず爪を噛む仁王に、およしなさい、と柳生が口から手を退かさせる。

 そして、ぶーたれる仁王に、眼鏡越しに厳しい視線を向けると、



「・・・今の二人の状態は貴方が仕組んだんですか」

「まあ手は加えたがの。参謀がを好いとうなら、どうこうせずともそうなったじゃろうし」

「大体なんでそんなこと仕組んだんですか?」

「そりゃあ、まあ、虫除けになりそーとかそんな感じかの?」



 柳生の周りの温度が下がったのがわかって、仁王は慌てて「本当のところは秘密じゃ秘密!」と人差し指を口に当てるようにして叫んだ。




 本当は。

 柳と付き合って、の中にある柳に向けた微妙な感情が、そういうことではない、と気づけばいい。


 仁王はそう思った。


 これは呪いだ。


 そうも、思った。



 例え、今うまくいって本当に付き合ったとしても、そういうことではない感情なら、いつか破綻する。

 破綻してしまえ。



 それに気づかせるため。



 たくさん有る好きという意味の中で、ただ自分にだけ向けられたい好きと言う意味。

 他のやつに向ける感情はまやかしだと気づけ。



 これは呪いだ。

 人を呪わば穴二つ。

 自分にも返ってくる呪い。

 だが、そんなこと、虫除けと称しただけで切れる柳生には話せない、と仁王は思って笑った。










 昼休みが終わりそうになったので、柳生は仁王を部室から追い出し、しっかりと戸締りをした。

 かちりと、錠が下りる音を聞いて、ふと聞いていなかったことを思い出す。



「仁王くん」

「なんじゃ。次は数学じゃよ。移動教室じゃないから急がんでも」

「喧嘩したなら早々に仲直りした方がいいですよ」



 言われるとは思ってなかった言葉に、仁王は思わず咽た。

 げほげほ咳き込みながら「な、んじゃ、いきなり」とだけ苦しげに訴えた。

 柳生は眼鏡を直しながら、



「一時間目、何かあったのでしょう?どうせ自分の首でも絞めたんでしょう?それで八つ当たりしたんじゃないんですか?」



 ドンドンと胸を叩いて、漸く咳が止まった仁王が、涙目に柳生を睨む。



「見てたようなことを言うのう」

「見てないですけど。勘ですね。それにしても、何を焦っているんです?」


 焦っている。そう感じた。

 部室で矢継ぎ早に話す仁王に対して、そう問いたかった。

 回答者は、しばし沈黙し、ややあって、重そうに口を開いた。


























「何で一貫校なのに、高校は文系と理系に分かれているのかなうちの学校は」

「私立なんてどこもそうだろう。まあ、学校として別れているのは珍しいかも知れないが」



 五時間目の学活で、進路指導が行われている。

 は先ほど教室に戻ってきて、教師に成績のことで散々言われたのだろうか、ぐったりと机に突っ伏し、上記のようなことをのたまった。

 しれっとしている柳を、は睨みつける。



「頭のいいやつは、どこにでも行けていいな」

「フッ、戯言を。お前だとて、そこまで悪くはないだろう」

「そりゃあ数学は得意だけど」

「なら問題ないだろう。工業校の方に行くのだろう、お前は」

「え?」



 は柳の言葉に、目を丸くする。

 柳もの様子に首を傾げる。

 「データの達人が入力をミスってる・・・・」とポカンと開いた口から囁きが漏れた。

 入力も何も、の成績から見れば理系方面に進むと誰もが思うだろう。

 何より、仁王も理系だ。話してはいないが、多分工業校へ進学するのだろう。

 柳の様子に、は、ようやく自分が担任を悩ませるわけがわかったようだ。

 成績云々ではなく、自分が本来行き易い道から外れた選択をしているということに。

 は、油が切れたブリキ人形のような動きで、



「私、普通校に行って絵描きたいんだけど・・・・」



 いろいろ頭が痛くなるようなことを言った。

 そして、柳が微かに気になっていた仁王の焦り(何故このような中途半端な時期に実行したのか)の理由が、その言葉で判った。






 事態は、柳が考えるより彼に有利に働いていることに、気付いた。