部活が終わりかけた頃、気づいた。
騒ぎ立てる女子から外れた場所に、興味なさそうな顔をして座っているやつが居た。
日に焼けた肌、無造作な髪、化粧気のない顔、美人ではないが可愛くないわけではない。
一見して運動部に所属してそうな体だが、彼女が鞄から取り出したのは一冊のスケッチブックと筆記用具。
。
中学に上がった時、てっきり運動部に入るかと思っていたのだが、あっさり美術部に入った時は驚いた。
決めていたかのように美術部に入ったので、意外と美術のセンスがあるのかと思ったが、今のところ仁王が知っている限りでは才能はゼロだ。
彼女の部活が早くに終わって、仁王を待っているとき、時々ああしてテニス部の練習風景をスケッチしているだが、今回もシュールな世界が白い紙に広がっていることだろう。
(…俺を待ってるのかのぅ?)
屋上で会話をしたのは昼休み。
名前の呼び方まで訂正に入ったが、仁王を待っているとは考え難かった。
「仁王くん、どうしました?」
柳生に呼ばれて仁王は考えるのを止めた。
待っているなら、全体集合が終わってから話を聞きに行ってもいいだろう。そうでなくても、部活後に話しかけるぐらいいいだろう。
そう結論付けで柳生の後に続く。
全体集合が終わり、仁王と柳生が一緒に部室に戻ると、そこにはすでに着替え中の柳が居た。
「柳くん、今日は随分と急いでいるようですね」
驚いた柳生が問う。
それもそのはず。柳蓮二と言う男は、いわば立海大付属中テニス部の頭脳である。
関東大会を控えた今、柳蓮二と副部長の真田弦一郎は遅くまで残って打ち合わせすることがほとんどだった。
それが誰よりも早く帰ろうとしているなんて。
柳はロッカーからハンガーごとワイシャツを取り出しながら、柳生を振り向いた。
「ああ、お疲れ。今日はちょっとあってな」
「お疲れ様です。良い用事のようですね、楽しそうですよ」
「そうか?」
ワイシャツを羽織りながら柳は仁王をチラッと見て、フッと笑う。「そうかもな」と口の中で呟く。
視線を向けられただけて笑われた仁王は眉を潜める。
相手は柳だけに感じが悪かった。
「なんじゃい参謀。もしや、彼女でもできたかの?」
からかい半分に言いながら、柳の後ろを通りロッカーを開ける。
仁王に続いた柳生もロッカーを開ける。
その音に被るようにして、柳が「ああ」と言った。
しん…
ロッカーの軋む音に負けて微かにしか聞こえなかったが、二人はそれだけで十分だった。
「おーつかれぃ!」
「お疲れ」
そこに空気を読まないテンションで、丸井とジャッカルが部室のドアを開けた。
開けた瞬間、部室の中の空気がおかしいことに二人は気づいた。
部室の中には部員が三人しかいない。
丸井は三人の内、一番近くにいる柳生に事情をコソコソと伺う。
「おい、なんで静まり返ってんだ?」
「あ、ああ、丸井くん、お疲れ様です」
「おー、おつかれぃ」
「静まり返った理由はですね、柳くんに彼女ができた、と言うような発言がありまして」
「マジ?柳」
目を丸くして丸井が柳を見た。
二人の会話はコソコソと言うよりおおっぴら過ぎて、ジャッカルにも十分聞こえるほどだったから、ジャッカルも驚いて柳の返答を期待した。
注目された柳は、少し居心地の悪そうにすると、「そんなに意外か?」と言いながら最後のボタンを閉めた。
「マジかよ!誰だよ彼女って!」
丸井がぴょんとベンチをまたぎ、柳の肩を抱いてニヤニヤする。
「そうだな、柳の好きな奴なんて聞いたこと無かったぞ」
「そうですね。一体どなたなのか気になります。私たちも知っている方ですか?」
興味深そうにするジャッカル、柳生と違い、仁王は無言でロッカーから制服のズボンを引っ張り出した。
そんな仁王の雰囲気に気づきながらも、柳はハンガーからネクタイを取り、丸井の腕を退かして巻く。
「知っていると思うぞ。よく話題にも出ていたからな」
「話題?…んー…わっかんねーな、誰だよ?」
「だ」
し、ん…
柳の一言に再び場が静まりかえった。
そうなるであろうと予測済みだった柳は、ジャージを詰め終わった鞄を持つと、「お疲れ」、と言ってスタスタと出入り口まで行く。
ガチャ
「ぅおっと」
柳がドアを引くと、今まさにドアを開けようとしていた切原が前のめりに入ってきた。
「赤也、お疲れ」
「あ、柳先輩、お疲れ様っス!」
元気良く挨拶する後輩に、柳は薄く微笑む。
そして、ポンポンと切原の頭を軽く叩くと「ではな」と言って出て行った。
「うぃーっす」と先輩を見送ってドアを閉じた切原は、そこで漸く部室の気まずい雰囲気に気付いた。
凍り付いている三人の先輩たちと、なぜか黙々と着替えている仁王先輩。
(なんの爆弾を投下して逃げたんスか柳先輩!?)
どうするべきか切原が迷っていると、丸井が沈黙を破って気まずそうに話し出した。
「なあ、今のマジだと思う?」
誰とも無く発した質問をジャッカルが受ける。
「冗談にしても質が悪いぞ。第一柳があんな冗談を言うか?」
ジャッカルの言葉に、柳生が眼鏡を直しながら続く。
「言わないでしょうね。…仁王くん」
「んー、なんじゃあ?」
声だけ聞けば、仁王の態度はいつも通りだ。
だが黙々と着替えて、一向に皆を振り返らない。
柳生は、聞きにくいがはっきりさせたいと皆が思っていることを代弁した。
「さんは、貴方の彼女では無かったのですか?」
「別れたナリ」
戸惑いも怒りもない。
平常時の音程で、間を空けず即答する。
そこから特別な感情を、柳生は読みとることが出来なかった。
「…では」
「参謀の言うことじゃ、俺と違って嘘なんぞつかんじゃろ」
そう仁王が柳の言葉を肯定する頃には、ネクタイを緩く締めていて、着替えが完了していた。
今日も疲れたの、とか言いながら鞄を持ってベンチに座り、足でロッカーを閉めた。
(…少しやりすぎたか?)
部室から出た柳は、先程の告白を反芻して少し反省する。
どちらにせよ仁王に発破を掛ける気でいたのだが、なにも皆の前で言うことは無かったかもしれない。
テニスに支障を来さなければいいが、などと考えながら待ち人の元へ足を急がせた。
待ち人は近づいてくる柳に気付いて、手にしていたスケッチブックと筆記用具を鞄に閉まった。
「柳、お疲れ様」
「ああ。何を描いていたんだ?」
「いつも通り、テニス選手だよ」
「ほう」
「そして、いつも通りの下手くそだよ」
「フッ」
待ち人、つまりは、立ち上がり様にパンパンとスカートについた埃を払う。
ゆっくりした動作と払う音の大きさに、テニス部ファンの女子の視線が彼女らを見た。
「では、帰るか」
「うん」
視線を十分に受けたことを自覚してから、柳がそう切り出した。
は、それに当たり前の様に頷いた。
それだけで、ファンの女の子たちには何を意味するのかが分かったらしい。
まるで悲鳴のような非難の声が上がった。
それらを尻目に二人はスタスタと帰って行った。
「…なかなか堂に入った演技だな」
「それはこっちのセリフ。私はただ頷いただけじゃん」
「俺とてタイミングを図っただけだ。…彼女らの洞察力に感謝、と言うところか」
校門を少し過ぎたところで、二人はひそひそと上記のような会話をした。
秘密の関係と言うのは、それだけで周囲から見れば親密である。
端から見れば愛を囁き合っている恋人たちにしか見えない。
「いい宣伝にはなったけど、明日から大変だあ。一体何人から呼び出しくらうのだろう…」
「呼び出し?」
「少なくとも、仁王と柳ファンは敵に回したからね」
「仁王のもか?」
「恋は盲目。私が悪女にされる確立100%ってとこね」
「成る程な。…ああそうだ、携帯の番号交換しないか?」
「ん、いいけど」
特に疑いもせずは携帯を取り出す。
「赤外線ついてる?」
「ああ」
「じゃ送るから受信してね?」
「分かった」
そして携帯と携帯を向き合わせて、アドレスを交換する。
くっつきそうでくっつかない微妙な空間の開いた赤外線装置同士を見て、柳は少し苦笑いをした。
は、柳が苦笑いしたのが分かったが、一体何に対して苦笑いしたのかがわからなかった。
受信が完了した柳が、合図の振りをして赤外線装置同士を、コンッとぶつけた。
完了の合図だと暗黙に理解したは、受信の準備をし始めた。
「今度は俺が送るぞ」
「おっけ」
柳からのアドレスはなかなか受信出来ず、はしばらく困った様に眉を潜めていたが、ややあってコツンと赤外線装置同士をくっつけた。
まさかがやるとは思っていなかった柳は、少し驚く。
「完了っス!」
そう言って笑うを見て、携帯を引き離すのが惜しくなった。
まるで。
(キスしてるみたいだな、なんて言ってが引く確立80%)
随分気弱な計算結果に納得して、携帯を鞄にしまう。
柳が青春を棒に振っていると思っているのは、だけだった。
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