出会わなければよかったと思うよ。本当だよ。
















「なあ、

「ん?」

「俺と別れて欲しいんじゃが」



 そんな会話が始まったのは、ぽかぽかとした陽気に目を眇ながら、仁王と雲を見ていた時だった。

 私は雲を見ながらぼんやり思う。煙草が吸いたい。



「いいよ」



 私は承諾する。

 仁王と私は小学校からの悪ガキ仲間だ。

 そして、中学一年の終わりから、仁王の女避け道具になっている。

 だがら、付き合っているなんて、建前のことで、断られても痛くもかゆくもない。

 彼がそう言うと言うことは、惚れた女ができたんだろう。その彼女も、おおよそ見当がつく。

 だてに『彼女』はやっていなかったのだから。



「今度は上手くいくといいね」



 チープな応援文句しか言えないが、中学三年の彼に向けるには、どんな言葉も気休めにしかならない。

 以前も似たようなことがあって、女避け装置を外したはいいが、私に仲を取り持つ手伝いをさせたせいで、意中の相手から顰蹙を買い、装置は再び装備された。

 ペテン師の仮面は、惚れた女の前じゃ形無しのようだ。

 ちょっと考えれば、世間的に彼女の位置においておいた女(私)に恋の架け橋をさせるなんて、女神(好きな相手)の不信を煽るだけだとわかるものを。


 ああ。

 煙草が吸いたい。


 今まで一度も吸ったことはないし、近くで吸われてるとムッとするのだが、小学校の時と違って喧嘩が出来ない分、欲求に駆られることが多々ある。



「そうじゃの・・・じゃが、今回は若干自信ないぜよ」

「へえ、それは珍しい」

「どうも、好きなヤツがおるみたいでの」



 前回の二の舞を踏みそうになる彼に、私は毒を投げかける。



「・・・仁王、言っておくけど、私当事者になる気はないよ」

「・・・知っとうよ。話するくらいいいじゃろ」



誰か煙草をくれ。


 手前の雲はゆっくりと流れているかもわからないスピードで動いているのに、遥か上空の雲の流れは恐ろしく早い。

 黙っている私の態度を肯定と見たか、仁王は話を続けた。



「どうも彼女は参謀を好いとるようでの」

「参謀?……ああ、テニス部の強い人?あ、柳か」

「おう、忘れたのか?」

「仁王用語で話されてもね。昨日もお前のことで、お前の目の前で会話したのに『忘れたのか』とは、喧嘩売ってるとしか思えないんだけど?」

「カリカリしなさんな、冗談じゃよ」



 そう言うや否や、私の方にポンっと密閉されたビニール袋を放り投げてきた。私はそれをキャッチする。

 なにこれ?…カリカリ梅?

 カリカリしなさんな、カリカリ梅?



「ぶっ!」

「お、ウケは上々やの」

「ちょ、おま、ダジャレとかマジ自重!」



 面白くもないはずのダジャレが、いつもそんなことを言わない仁王が言ったせいか、妙にツボってしまい、笑い転げていると、ニヤっと口の端をあげたペテン師の笑顔に視線がぶつかった。

 腹が痛い上に呼吸困難だが、涙を拭って、カリカリ梅を一つ頬張る。酸っぱい。

 酸っぱさに顔をしかめながら、ニヤケ面に投げ返す。

 ぱしっと小気味よい音を立てて仁王が受け取る。



「その子にもやってあげなよ。私ですらウケたんだから、その子も笑うでしょ、多分」

「そうじゃの」



 仁王はニヤニヤと上機嫌に、自分もカリカリ梅を一つ頬張る。そして、「すっぱ!」と顔をしかめた。



「さてと」



 仁王が立ち上がる。

 予鈴前に移動しようとする仁王は珍しい。

 顔に出たのだろうか、「次体育じゃけ、着替えんといかんのよ」と面倒くさそうに言ってきた。



「そっか、頑張ってきな」

はもうちょっと居るのか?」

「予鈴聞いたら行くよ。それとって呼ぶの止めなよ」

「どうして」

「おいおいペテン師、いくら君が世界の中心をすり替えられたって、暗黙の了解と言うやつは無意識な分悟らせるのが難しいんだよ」

「俺国語苦手ナリ、分かりやすく教えてナリ」

「・・・彼女でもない女を下の名前で呼び捨てはガキのやること。因みに呼び方変えた方が、より別れたことを周りにアピールできる。おーけー?」

「おーいえす。sureぜよ」

「ゆーあーうぇるかむ」



 自称国語苦手な仁王の英語を鼻で笑う。あー煙草吸いたい。



「じゃあまあ、帰ったらメールするからの」

「ん」



 そう言って私は寝ころんだまま仁王を見送った。

 屋上の重い扉が、軋んだ音を上げて開き、重厚な響きと共に、仁王を吸い込んで閉まった。

 響きと共に目を閉じる。瞼越しにも感じる陽光のせいで、視界は淡いオレンジだ。

 そよそよと大気がスカートの裾をくすぐる。


 静かだ。

 とっても。

 ああ、煙草が吸いたい。


 ふと目を開けて、雲を掴もうと右手を伸ばした。届くわけ無い。あれが綿菓子なんて信じてた小さな子供じゃ、もうない。



「寂しい」



 口をついて出た言葉の意味は、わからなかった。

 瞬きすると、涙が一つこぼれた。






















 帰りの会が終わり、私は机から日誌を取り出した。

 今日の日直は私と柳だった。

 私は隣の席の柳を振り向いて、



「日誌は私が書いておくから、部活行っていいよ。関東大会近いんでしょ?」



 そう言うと、柳が少し動きを止めた。

 なんだよ。

 思うと同時に睨んでしまったのだろう、柳の口の端が上がった。



「話したくないが、話したいことがあるのだな」



 ぎくりとした。

 間違っちゃいないが、なんでどうして其処まで読み取れるのか。かまか?これは?

 私は柳を睨む。

 涼しい顔に私の眼力など通用しないことが分かって、私は視線を日誌に落とした。



「・・・・・・聞きたいことがあるならそう言いなよ」

「仁王のことか?」

「最近思うけど、男子も体外恋話好きだね。仁王とは別れたよ」



 日誌とにらめっこしている私にはよくわからないが、柳が私の方をじっと見たのがわかった。


 煙草が吸いたい。


 しばらく私の黒鉛を削る音が続いた。いつもなら、字が汚い私に柳からの教育的指導が入るのだが、そんなこともなかった。

 ドサッと柳が私の前の席に座る。

 日誌から顔を上げると、椅子に横座りになり、半身を捻ってこちらを見ている柳の視線とぶつかった。

 目を開けてるのか閉じているのかよくわからない彼の表情は、心理戦には有利だ。仁王より考えることが読めない。

 私は少し柳を睨む。



「どうしたの?私が珍しく自分からやる気だしたのに、部活行かないの?」

「その珍しいやる気と、仁王の件は関連があるのだろう」

「私と仁王の付き合い事情知ってる癖に、よくそういうこと言うね。・・・まあ柳は関係なくもないか?」

「は?」



 私が仁王の女避けだったことは言ってはいないが、柳は知っていた筈だった。

 嫌みの一つでも言ってやろうか、と思っていると、仁王の言葉の中に『柳』の文字があったことを思い出した。

 私に向かって疑問符を投げかける柳に、私はシャーペンを突きつけて、



「仁王の好きな人が、柳のこと好きなのかもしれないんだって」

「そうなのか」



 柳は特に動じた様子もない。返ってきた台詞にも、疑問符は浮かんではいない。

 私は思いっきり、つまらない、と言わんばかりの表情をつくり、シャーペンを日誌の上に戻す。



「そう。協力する気はないんだけど、話はまあ聞いてあげてもいいかなってことで知り得た情報」

「それを俺に流していいのか」

「柳ならいいっしょ。大体それすらも読めてないなら、アイツからはペテン師の称号を剥奪した方がいい」

「厳しいな」

「そっちが甘いだけ」

「そうかもな。・・・ああ、

「なに?」

「俺と付き合わないか?」



ボキッ



 シャーペンの芯が折れてどこかに飛んだ。

 書いている文字の近くに変な黒子ができてしまって、私は慌てて消しゴムを筆箱から探す。



?」

「な、なによ」

「お前も、俺にそう言おうと思っていたのではないか?」



 思わず顔を上げて彼を見る。

 珍しく目を開けていると分かる表情をしている柳は、同情の色を纏い、口の動きだけで「におうのために」と言った。



「・・・・・・・・・・・・」

「俺とお前が付き合えば、仁王の想い人の想いの矛先は行き場を失うと考えたんだろう?悪くないな。その為には俺の協力が必要不可欠だが」

「・・・・・・柳」

「なんだ」

「私ら中三だよ」

「そうだが」

「中学最後の青春を棒に振るわけ?」

「それが言い出せなかった理由か?」

「そう返されると言葉に詰まるなあ…それもあるし、馬鹿馬鹿しくもあったしね」



そう、馬鹿馬鹿しいことだ。端から見れば。

私のしていたことも、考えていたことも。

つい柳に「仁王の想い人が、柳に恋してるかも知れない」なんてことを言ってしまったのは、協力を要請したかったからに他ならない。

もちろん馬鹿馬鹿しいと思って要請するのを止めたのだが、見透かされるとは気まずい。

いや、この場合嬉しい誤算、と言った方が良いのだろうか。

私の答えに、フッ、と彼は笑った。つい、と周りの空気が優しくなる。



「もう二度は言わんぞ。俺と付き合わないか、?」



嘘でも芝居でも、こんな顔の奴に優しく言われると、心臓が踊りだしてしまう。

でも、好き、とは言わない。ただ「付き合わないか」とだけ。

それは、協定の合図。

それが、私の脳みそを平静に保つ。

私は小さく「okey-dokey」と返した。

西日に包まれた教室は、なにもかもを赤く橙色に染めて、なんだかお互い照れてるみたいで少しおかしかった。