我に返ったのは、調理室で乾汁を飲んでいる時だった。
飲み干した後の激烈な苦味と辛味が残る舌を空気に晒すと、乾くんが「もう終わりか?」と聞いてきた。
机には空のジョッキがひ、ふ、み…6個置いてある。
「飲み過ぎ!」
漸く感想を言った私に、乾くんが「そういうデータが欲しいわけじゃないのだが…」とぼやいた。
味音痴の私には、この強烈過ぎる味はイマイチわからんのだが。
それでも舌が混乱している。
「博士は相変わらず博士だね…しかしなんで私こんなところでこんなものをこんなに沢山飲んでるんだろ…?」
「相変わらずはお前も同じだ。俺の特製ドリンクを何一つ言わずにこれだけ飲み干せるのは後にも先にもお前だけだろうな」
「誉めて貰ってるのかわからないけどありがとう。…って言うか久しぶり乾くん。そだ、私がいまここにいることを質問したりした?」
「してはいない。が、教授から聞いた。…色々記憶が抜けているようだが、いったいどこまで覚えている?」
「人を殴ったとこまで」
「……なるほど。
…参考になるかわからないが、
ふらふら歩いてきたお前は俺を見るなりジョッキを奪って飲み干し、
お代わりを要求してくるから、それならと思いここで実験…いや、喫茶店のメニューの研究をしていたところだ」
「なるほど!舌が大混乱しているのはそのせいだね!」
私と柳生くんは、この青春学園に通うデータテニスプレイヤーをかつて(今もだが)博士と呼んでよくつるんでいた。
因みに乾くんにとって私は被験者だ。良き友人と書いてモルモットと呼ばれる関係である。
私と柳くんは家が近所で学校もテニススクールも一緒であるが、乾くんとはテニススクールで柳くんが意気投合し、柳くんの付属品として私が紹介された、それが三人の馴れ初めである。
特に私が乾くんと仲良くなれた要因は、この舌にある。
全くの味音痴である私の舌は、しかしながらものの成分、割合を正確に判断出来る能力を持っている。
…無論「味音痴が直らないなら、せめて正しい味の割合を覚えてなくては!」とした見栄っ張りの努力のたまものである。
「喫茶店のメニューねぇー…よく他の人に反対されなかったね」
「何故だ。口当たりが良いように改良してあるだろう」
「…私にとっては甘くて美味しいと言うより、カロリー高すぎっていう気分なんだけど…」
「む、そうか…難しいな…」
「乾くんの班に普通の味覚の子はいないの?」
「いるにはいるのだが、飲んでくれなくてな」
「…気持ちはわかるけどなぁ…」
乾くんが新しくテーブルに置いたジョッキを反射的に受け取って一口飲んだ。
いかん、刷り込み教育されとる。
「…ん、これは…生姜をもう少し多くして、蜂蜜と砂糖と…なんだこりゃプルーンか?を減らすべきだよ。その代わり炭酸水とクエン酸を足すとまだマシかも」
「ふむ、総合栄養価にやや不満が残るが、貴重なデータだ。参考にしよう」
「乾くんのドリンクはだけは健常者のデータがまともに取れてないから、方向の修正が難し過ぎるよ…」
「そうは言うが…ああ、うちのスペシャルメニューのフード版だが、食べてみないか?」
「スペシャルメニューって…乾くんが作ったの?」
「不二だ」
「ああ!あの味覚音痴の全くデータが取れない人ね!」
ひどいことを口走ったが、味でもテニスでもデータを取らせない天才だと言う誉め言葉ってことでよろしく!
出されたサンドイッチを食べていると、ポケットで携帯が震え出した。
長い、電話か?
やたら量の多い七味と辛子のミスマッチなサンドイッチをひとまず置き、口をもぐもぐさせながらポケットを探る。
サブ画面には『着信 教授』の文字。
「…ふぁい、もひも」
「、お前今どこにいる」
ひゃ!
電話越しに伝わる冷気に、思わず身をすくませる。
おおおこってる!?なんで!?
「どこにもいません!」
「お前らしからぬ言い訳をするな。…ものを食べていたな」
ぎく!
「なにも食べてません!」
「そこをうごくなよ」
ブッ、ツー、ツー、ツー…
切られた!?
しかも怒ってる!?
「どうした?」
激しく動揺する私に、乾くんが声をかけてきた。
「乾くん!柳くんが真っ先にここに来る確率は!?」
「ふむ。そうだな…蓮二の現在地にもよるが、65パーセントといったところか」
「過半数以上!?」
「ここでなければ、うちの喫茶店だろう。だがそれは口頭でことが足りる。つまり」
ガチャリとドアノブが回される音がする。
ひぃ!
「蓮二の予告からお前が逃れる術はない」
眼鏡を不気味にテカらせて、乾くんが満足げに頷いた。
そんな何かのホラービデオじゃあるまいしっ!
パニクった私が外から丸見えのテーブルの下に潜り込むのと、ドアが開くのが同時だった。
「!…………丸見えだ」
「ぎゃーっ!何かよく分からないけどごめんなさぃいぃいい!」
見つかった反射で思わず謝り倒してしまった。
柳くんは私のあまりにもお粗末な隠れ方と、稚拙な回答に呆れているようだ。
そんな私たちの様子を見て、乾くんがおどけるように言った。
「やあ教授。ご来店感謝する。何か飲んでいくか?」
「貞治か。…いや、遠慮する。はお前と一緒だろうと予測していたが、正解で何よりだ」
「そうか。しかしはここで6杯飲み干すまでぶっ飛んでいてな。覚えてないと言うから、会う以前のことは俺も知らないぞ」
こそこそと机の下で握り締めていた携帯を開いて見る。
…来場してから一時間とちょっとしか経過していない…今日の時間の経過はいつもより遅くないだろうか。
「」
「はいっ…!ぃ…っ!」
机の下にいることを忘れて思いっ切り顔を上げようとしたら、案の定強かに後頭部をぶつけてしまい悶絶する。
「おい、大丈夫か?」
「…だいじょーぶだいじょーぶ」
後頭部を押さえながら、そろそろと机の下を抜け出す。
「う、う、う、痛いよぅ」
「しょうのない奴だ」
「わかってるよぅ…。ところで柳くん何で怒ってたの?私が悪いことは間違いないんだけど…」
「ほぅ、何故そう思う」
「博士も教授も不確かなことはしないじゃん。間違えるのは私の役目のようなもんよ」
乾くんと柳くんが私の台詞に顔を見合わせ、フッと笑いあった。
「まあいい。…役目かどうかは知らないが、準備に支障をきたさない程度に張り倒す約束のはずだが」
「え。ぶん殴ったまでは覚えてるけど、赤也くんじゃあるまいし、そんなひどいことしてないよ」
「股間を蹴り上げるのは、男として死活問題なのだが」
こか・・・っ!
話を聞いていた乾くんが哀れむような表情を見せた。
「…お前…」
「ご、誤解だよ乾くん!そんなこと覚えてないもん!」
「やってないと言わないだけまだいいな。…ちなみに俺はそこまで怒ってないぞ」
「本当?!」
「ああ、その点に関しては、だ」
じゃあ何に怒ってんだよー。
そこまでってことは、やっぱりその点にも怒ってるんだろうけどよー。
「、物事にはタイミングというものがある」
「…う、うん」
「いいか、俺は誰かを好きになると言うことが悪いと言っているわけじゃない」
「う?うん」
「だがな、何もあのような状態で言うことはないだろう。それでは成る物も成らないではないか」
「ん?んん?」
「いつものようなじゃれあいだと軽く見ていた俺も認識不足だったのかも知れないが」
「あのー柳くん、話が全く読めないのですがー…」
柳くんの言葉を中断し、ついていけない心の内を述べると、彼は眉根を寄せて、
「殴った後告白したんだろう、仁王に」
「はい?」
「その後蹴ったんだろう、仁王の股間を」
「凄まじいドメスティックバイオレンスですな、一体誰がそんなことを」
「お前だ」
「はい?」
「、お前だ」
「…そんな愉快な人生を送ろうと思ったことなど一度もございません…」
「だが事実だ」
「嘘だと言って!」
「言うのは簡単だが、事実は変わらない」
「いやぁああ!もうお嫁に行けない!乾くんスペシャルドリンクもう一杯!キツメで!」
「よし、わかった」
「問題はお嫁云々の話ではないだろう」
乾くんはチャキチャキとドリンクを作りだし、柳くんは呆れたように私にツッコミを入れた。
「ちなみに…その話は誰から」
「伏している仁王と付き添っている柳生からだ。一応は口止めをしておいたが」
「ありがとう…てか二人の感想は?」
「聞きたいか?」
「聞きたくないけど聞いておく」
「前向きな判断だ。しかし、残念だが仁王も柳生も特に何も言っていなかった。そうだな、柳生が複雑そうな顔をしていたな」
うおぉ…ほかの部員に知れないことを祈る…。
机に突っ伏した私に、乾くんがドリンクを置く。生臭い。魚か?
やけになって飲んでみれば、鼻につく生臭さに全身を支配された。
舌触りはスムーズィだが、泥水を飲んでいるような味だ。
味覚音痴の私でも十分ヤバい。
「どうだ、DHAたっぷりの鰯水は」
「全く頭が働きません…」
「む、そうか」
再び撃沈した私に、残念そうな乾くんの声がした。
青学の部員たちが、違う意味で哀れになった。
「それで、これからどうする気だ」
「風船をつつくような真似はしません…」
「そうではない。仁王のことだ」
「……柳くんさぁ…私が仁王くんに告白すると思った?」
「まあ、いつかは、とはな」
「どうして?私そんな気これっぽっちもなかったよ」
「お前は、仁王にだけは点数が辛かったからな」
「え?」
「腕を壊してからは特にそうだが、お前は他人にアメしか与えない。
為にならないと知りながら、欲しいと言わわればアメをやる。
赤也に宿題を写させたり、ブン太に多量の菓子をやったり、とな」
去年、幸村くんがまだ健全だったとき、赤也くんが私の宿題を写しているのが見つかって、真田くんに怒られたことがあった。
まだ怒ってるのそれー・・・まさか夏休みの宿題の件もバレたのか?
「だが仁王にだけは別だった。アメも鞭も与えていたな。
それこそ昨日のように、仁王に頼まれ事をされても、わざわざ届けたり長時間待ったりはいつものお前ならしない。
特に待ち時間は、5分待って来なかったらいつもなら帰っているだろう」
言われてみれば、そうだった気がする。
お互い接点がなくなったら、もう話もしなくなるような、そんな関係でいようと努めていた。
世の中には理不尽なことがいっぱいで。あんなに頑張って色んな人に誉めてもらっていたテニスも、原因不明の病の完治と引き替えに夢は潰えた。
テニスができなくなったわけではない。
プロにはなれなくなっただけだ。
それでも周りは冷たかったし、私は悲しかった。
望んでも手には入らないもの、失ってしまうものがあることを知り、次第に欲しいものを作らないようになった。
欲しいものとは距離を置くように努めた。
「…私の愛情表現って間違っている気がする…」
「自分でそれを言うのか。…間違っているかどうかは分からないが、もう少し自分のことをよく考えてみるべきではあるな」
「そうだね…柳くんに言われても私が仁王くんのことを…す、好き…かどうかなんてピンと来なかったし」
あー恥ずかしい…。
「よし!今日のことはなかったことに!」
「おい」
「博士!青春学園レギュラー陣の写真あったらコピーさせて!」
「ああ、いいとも。しかし、写真は家にあるが」
「じゃあ今日このあと博士ん家に行くね!」
「わかった。その代わり立海の生徒にうちの宣伝も頼む」
「博士は等価交換を提示してくれるから助かるよ!まかしといて!」
「おい、」
「ん?柳くんも乾くん家に行く?」
「それは別に構わないが…無かったことにして良いのか?」
「うん。我が事ながら寒々しいけど、覚えてないし、売り言葉に買い言葉的に言ったんだと思うし。仁王くんと柳生くんには気の毒かも知れないけどね」
私が言うと、柳くんはため息を吐き「お前がそういうなら、俺も忘れよう」と言ってくれた。
その後三人でグラスの片付けをし、乾くんと一時お別れをし、私は柳くんに付いて模擬店ブースまで行くことにした。
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