僕がわない君。









 鳥の囀りが聞こえる。

 空が白んできた。

 そこで漸く、夜を明かしてしまったことに気づいた。

 兵法を読み漁っていたらこの様だ。仕事をしているときより集中していたらしい。

 机の上ならず床にまで散らばった木管を見回しながら、両手を上げて延びをする。

 さて、これからどうするか。会議まで一眠りするか。と思案していると、




「うどわぎゃっほーいっ!!!」



 庭園の方から、痛がっているのか喜んでいるのか判別しがたい悲鳴が聞こえた。



「………」



 徹夜で固くなった肩を解そうと、首を回すとゴキリといい音がした。

 ふふ、と思わず笑みが上る。

 陸遜がのほほんとしている部屋の外では、悲鳴を聞きつけた侍女たちがワタワタと騒ぎ立てている。

 時間が時間だけに寝ていたのだろう。状況を理解してニヤニヤしているのは、この舎では陸遜しかいない。



「り、陸遜様!」



 まろぶように駆けてきた侍女長に、陸遜は緩慢な動作で振り向き、



「遅かったですね。もしあの悲鳴の主が曲者でしたら、私はもう死んでたかもしれませんよ」



 くすくす笑いながら言われた言葉に、侍女長は顔色を無くし膝を付く。



「お戯れを…」

「ふふ、すみません。寝てないので冗談が過ぎました。他の者たちに騒がないように伝えていただけますか?」

「は、はぁ…」



 咎めるわけではなく、上機嫌な主の姿に侍女長は困惑したが、そこはそれ、長い付き合いである。ややあって「ああ…」と一つの答えに行き当たった。

 陸遜はその思考を見透かして、満足げに頷いた。



「今朝はいつもより早かったですが、いつも通りの客です。お茶の用意をお願いします」

「畏まりました」



 侍女長の承諾を待たずに、陸遜は外套を羽織って庭に出た。



 陸遜に分からないことはない。

 陸遜に出来ないことはない。

 昔、陸遜に他人なんていなかった。世界は自分だった。

 自分の知ってる通りに行かなかったことなんてなかった。

 それが良い結果であれ、なんでれ。

 天つ才。

 全てを見通せる力。それを陸遜は持って生まれてきた。

 相手が何を考え、どう動き、どういう結果を残すか、それが相手と出会った時にわかってしまう。

 だから、父は『陸遜』と彼を呼んだ。

 陸遜が今ここに居るのも、陸遜の考える内。

 孫家に身柄を拾われたが、頭を垂れて帰順するつもりは無かった。

 孫家に陸遜は扱えない。陸遜は孫家に滅ぼされる。子孫、諸共。陸の血は絶えなくても、陸遜の血は絶える。

 そう、孫呉の王の後ろにいる弟君を見て分かった。

 陸遜はこの人に滅ぼされる。

 死ぬのではない。滅びるのだ。

 それが分かったから、陸遜は孫呉に従軍することに決めた。

 滅ぼされる相手が分かれば、どこへなりと下ろうと必ず最後はこの人の元にくることになる。殺されるのではなく、滅ぼされるのだから、それは絶対なのだ。




 当時を思い出し、ニヤケる頬に少し苦みが混じった。

 今の陸遜は違う。他人がいることを知った。教えてもらった。

 ザカザカと靴が砂利と雑草をこする。

 庭の中ほど、木に縄で逆さまに吊され唸っている女性を見つけ、足を止めた。



殿」



 嬉しそうな陸遜の声に、は唸るのを止め、パァッと顔を輝かせて陸遜を見た。



「陸遜!おはよう!」

「おはようございます、殿」

「ねえねぇ、陸遜!いきなり世界が逆さまになっちゃったよ!これどうなってるの!」

「それは、貴女が吊下がっているからですよ」




 陸遜は喉の奥でくつくつと笑いながら、の疑問に答えて上げた。

 は、そうかぁでも不思議だよねぇ、と心底感心したように頷き、左右にプラプラと揺れた。

 陸遜にはの気持ちは読めない。

 がこの時間にこの場所に来ることは陸遜には分かっていた。だから仕掛けた罠。

 今度こそは怒るだろうと仕掛けたのだが、喜ばれると陸遜も嬉しくなった。少しだけ、もしかしたらは不思議な顔をするかもしれない、と期待していたからだ。

 前回は落とし穴で、穴の底から彼女は「空がちっちゃくなっちゃった!どうしよう陸遜!」と、今とは全く逆の絶望と言う化粧を塗りたくった姿で叫んだ。

 彼女が何を考えているか分からない。陸遜にとってこれほど嬉しいことはない。

 ただ陸遜に一つ分かること。それは、この女性が(言動自体は非常に幼いが)途方もなく優しいと言うこと。

 は逆さ吊りにされたまま、大事そうに抱えたままにしていた布袋を陸遜に惜しげもなく渡した。
 陸遜はそれを大事に受け取る。



「ふふーん」



 は逆さになりながらも、自慢げに胸を張って陸遜を見ている。

 きっと、陸遜が中身に驚いて微笑む姿を想像しているのだろう。

 が、陸遜は中身を見る前から知っている。

 昨日、ふと陸遜が彼女の前で呟いた。

 てほてほと歩いていたが見つけた陸遜は、崖に咲いている花をじっと見ていた。


「陸遜何してるの?」と、

「華を…」と、陸遜。

「華?」と、

「…おや?殿。散歩中ですか?」と、陸遜。


 もちろんこれは陸遜の芝居で、わざと華に熱中している振りをしていた。

 見ていた優しいは、きっととって来てくれるだろう。

 それは本来なら『きっと』や『だろう』が付く事柄では無かったのだが、陸遜はワクワクと今の瞬間を待っていた。

 布袋に入っていたのは、草と土に覆われた根っこ。





 疑問符が音を立てて頭から跳ね上がった気がした。疑問符が頭から抜けると、その穴を埋めるように溢れ出た知識が、これは確かに崖に咲いていた花である、と告げる。

 陸遜が固まったのを見て、はにっこりと微笑んだ。



「陸遜!何の花かわからないでしょ!これはねー」

「昨日の…崖の…」

「をを!さっすが陸遜!そうだよー可愛いよねー」

「ええ。でもどうして」

「お庭に植えたら、来年も見れるよ!あそこ結構崩れやすいんだよね!」

「ええ、だから工事の下見に昨日あそこに居たわけですが」

「そうなの?んー、じゃあ、あ!土ごと持ってきたのは」

「根が空気に触れないためですね。それと、次の環境に早く慣れさせる為に」

「さっすが陸遜!博識だね!・・・あれ?じゃあ、なんでそんなに不思議そうなの?」




 そろそろ頭に血が上ってきたようで、赤くなった顔を、陸遜よりよっぽど不思議そうな顔にして首を傾げる。

 疑問に脳神経がすべて集中しているため、顔が火照ってきていることなどに彼女は気づいていたないらしい。

 そんな彼女の彼女らしい部分が好きな陸遜は、状況を変えず、困惑の表情を変えないまま、にもっともなことを言った。



「花、咲いてないじゃないですか」



 が持ってきた物は、もはや苗であった。

 確かに、これは陸遜が欲しかった花である。

 そして、確かに、陸遜が近い未来必要になるのは、この花の根である。

 しかし、が、まだ何も予兆として起こっていないことを予測するのは不可能だと陸遜は知っている。

花と言うのは、一般的に、地面から上の部分、茎から上部で咲き誇っている花弁を指すものであり、「花が欲しい」という言葉に対して、花弁の閉じた蕾や、まだその予兆すらない芽を持ってくるのは、前者ならまだしも後者は何を考えているのかさっぱりである。

 しかし、は陸遜の困惑に対して、困惑で返してきた。



「だって切っちゃうの可哀想だよ?陸遜も可哀想でしょ?」



 陸遜に問われて、疑問が積み重なったはただオロオロと手をバタバタさせた。



「切っちゃったらもう会えないかもしれないんだよ!」



 は必死に訴えるが、要領を得なくて陸遜は困惑するだけだった。

 切ってしまったら花は死んでしまうだろう、殿はそれが悲しいと思っているのだろう。殿は優しいから。



「ここに、この花をつれてきた時点で、この花はもうひとりぽっちだと思いますが」



 言ってから、少し意地が悪かったな、と後悔した。
 しかし、当のは、目をぱちくりし、



「陸遜がいるよ」



 そして、どんな花にも負けないくらいに、にっこりと笑みを咲かせた。



「生きていれば、いろんな人と出会えるよ。生きていれば、ここにいるよって叫べるよ」



 は変わらない。陸遜は、こんなに信条が変わらないが不思議で、理解できなくて。

 初めてあったときも、こんな風に、まるで人を殺したこともない少女のようなことを言って、今みたいに陸遜は、自分の中にドス黒い感情が生まれたのを知った。

 それこそが『自分』であった。所謂、自己嫌悪こそが自己確認の為に、が陸遜に起こした最初のことだった。どうしても、どうやっても、抗うことのできない運命の流れを、ただ読み取るだけになっていた陸遜は、ようやく『後悔』という意味のないものを知ることができたのだった。



「それでも、貴女は人を殺すんですね」

「そうだよ」



 大輪の笑顔で、は答えた。

 陸遜は苦笑いする。ああ、やっぱり理解できない。



「・・・一緒に庭に植えましょう、殿」

「うん!・・・・っ、うー・・・・・り、陸遜」

「!・・・どうしました?」



 元気よく返事をしたと思ったら、次の瞬間には苦しそうに呻いていた。

 よく見ると、顔が赤から青に変わっていた。



「なんか、心臓がバクバクして、目の前が真っ白になってくんだけど・・・」

「それはいつまでも吊り下がっているからですよ」

「うわー・・・そーなんだ・・・ふし・・・ぎ・・・・・・・・」

「・・・・・殿?」

「・・・・・・・・・・」



 返事がない。吊るしすぎたようだ。

 後ろから、お茶の用意が出来た、と呼ぶ侍女の声が、後半から悲鳴じみたものに変わったのが聞こえた。



殿といると、本当に調子がくるってしまいますねー・・・」



 ニヨニヨと口の端が上がるのを自覚しながら、今度は白くなっていくの顔を見て、あわてて彼女を木から下ろした。














あとがき


 アビィ様より、「策士の陸遜。でも夢主だけにはなぜかかなわない。夢主は元気一杯の娘。糖度100%」という設定をいただきました。

 なんていうか・・・途中から、私は「元気一杯」と「無邪気」を間違えているのではないのか?
 そんでもって「無邪気」の意味すら履き違えているのではないか?
 そんな恐怖におびえながらこつこつ言いたいことを書いて、終わってみたらこの様です。糖度100%どこいった?

 陸遜の設定は、ちょっとこの前読んだ陸遜の本が、そんな感じのことを書いていたので、参考にしてみました。

 でも、どう考えても史実ではなさそうですねぇ。


 ここまで読んでくださってありがとうございました!