心なんて無いみたいに
「陸遜陸遜」
名前を呼ばれて陸遜は立ち止まった。
中庭園に面している回廊。日差しの眩しい夏の午後。声は、女性。
手のひらで庇をつくり、目を細めてそちらの方をみる。
しかし、庭園には誰の影もない。
「・・・・」
さてどうしたものか、と陸遜は庭園を眺めながら思った。
今、彼を『陸遜』と呼ぶ人は数少ない。今や彼の位は高く、呼び名は役職名の方が多い。
つまり、彼を『陸遜』と呼べる物は、彼より位が上の者しかいない。
しかし、普通、彼より位が上の者が、こんな場所にいる筈もないのだが。
(出てこない・・・。と言うことは、探せと言う意味ですか)
陸遜には、声の主に心当たりがあった。
自ら抱えた大量の竹簡に目を落とし、軽くため息を吐いて、彼は庭園に下りた。
無視出来るほど、浅い仲ではなく。
そして、最近全く会うことが出来なかった故、尚更。
「・・・・ふぅ」
庭園に下りれば、彼女の気配は容易に掴めた。
彼は戦場に身を置く者。自身に向けられる気配を、察知するだけの能力は持ち合わせている。
例えば、弓兵などが獲物を仕留めるとき、どんなに気配を殺していても、発射する瞬間には殺気を標的に吹き付けることになる。
その感覚すらも掴めなくては、もはや彼は此所にはいない。
呼び出した本人は、よほど戦などに長けていないのだろう。陸遜に向けた、明らさまな好奇と期待の籠もった視線。
熱視線とも等しい気配に、陸遜が気づかぬ筈もなく。
「・・・お呼びですか?様」
「ひゃ!」
当の陸遜は気配をけしての背後にわざと回って、声を掛けてみたりした。
は体をビクッとさせて、地面から数尺飛び上がった。
彼女のそんな様子を見て、陸遜は喉の奥でくつくつと笑った。
「そんなに驚かなくても」
「驚くわよ!酷い。陸遜の悪趣味」
笑わないで!と、頬をぷぅっと膨らませて怒る。体は成人女性のようだが、その行動がなんとも幼い。
すみません、と謝りながらも笑う陸遜。
もういい、とぷいっとそっぽを向く彼女。
笑いながら陸遜は、彼女の隣に腰を下ろした。
ここは涼やかな木陰で、回廊からは死角になっている。
暗殺にはもってこいの場所かもしれない、次からこの場所には気をつけないとな、と心の中で思う陸遜。
表面では、彼女の行動に失笑している陸遜。
「部屋に居なくていいのですか?」
「うん」
彼の問いに頷く彼女。その答えに陸遜は「ふぅん」と相づちを打つ。
陸遜は、竹簡を自分の横にドサッと置いた。
「ねえ、陸遜」
「何です?」
「ちゅーしよ。ちゅー」
なんでも無いことのように、さらりと大変な要求を彼に突きつける。
けれど、彼女のそう言ったところに慣れている陸遜は、ただちろりと彼女に視線を向けただけ。
「陸遜」
「はい。なんです?」
「私ね、お嫁に行くの」
会えなくなる前の時、は自室に陸遜を招き、箏を披露していた。
別にそれ自体は珍しいことではない。彼と彼女は同年代で、呉の官僚となった陸遜とはよく会ったりもしていた。
は他の孫一族に比べて、気安いところがある。
それは、彼女が孫堅の拾い子だからだ。
と陸遜が会った時は、孫堅も亡く、孫策も亡くなっていた時で。
「私は養い姫だよ」と何でも無い事のように言う彼女に親近感を持ったのは、陸遜自身も両親を共に無くし、叔父の元で暮らしており(出会った当時、その叔父も亡くなっていたが)、叔父の息子が成人するまでの間、代理当主を演じている事を強制される、という生い立ちが陸遜にはあるから。
陸遜もも、21歳を数え始めた頃で、そんな生い立ちで取り乱したりするほど、心幼くはない。
そして、
「そうですか」
「うん」
「お嫁に行く」と言う発言に、陸遜はわずかに微笑みながら、天気の話でも聞いてるかのように相づちを打った。
も彼の反応を気にせず、肯定を追加するのみ。
お互い、これは政略結婚だと知っている。
幼い頃に夢見ていた、愛や恋などは微塵もない婚姻だと言うことを。
自身、言ってどうなるものでもないと分かっている。
陸遜自身も、止めてどうなるものでもないと分かっている。
「僕も、妻をもらうんですよ」
「そうなんだ」
「はい」
陸遜の何気ない言葉に、は驚いたりもせず、陸遜が取ったような態度で頷いた。
は、陸遜の横に移動すると、彼に向かって、
「陸遜、ちゅーしたことある?」
「接吻ですか?」
「うん」
「何故です?」
「私はないから」
普通の男女のする会話ではない。
恋仲ならまだしも、彼らはお互いに「好き」などと言うことを、出会ってから一言も口にしていなかった。
不透明なまま。親友と言う関係ですら表せないような関係。
仲が良いと言う訳ではなく、互いの存在を空気程度にしか認識していない関係。
「へぇ」
「陸遜」
「はい?」
「ちゅーしよ」
は照れもせず、また真剣でもなく、遊びにでも誘うように軽く言った。
流石の陸遜も、これには一瞬きょとんとして、
「いいですよ」
けれど、こともなげにそう言うと、言うや否や、の唇に、自分のそれをちょんと触れさせた。
軽い、一瞬だけの。
は、行為が終わったあと、むぅ、と何やら考え込んだ。
「どうされました?」
「これくらいなら、なんか父様や策兄様に沢山された気がするなぁって」
「ははぁ」
想像していたのと異なった行動を陸遜が示したので、彼女的には不満なようだ。
それを心得て、陸遜はくすりと笑った。
「僕もしたことないんですよ」
そう言って微笑む陸遜に、は真顔で「嘘くさい」と言った。
彼女の容赦ない言葉に笑い転げる陸遜。
彼女が呉の人として、呉国で会話した最後の日。
「おめでとう」の言葉もなく。
「さようなら」の言葉もなく。
ちろりと視線を向けた陸遜は、表情を宿してない顔で、
「だめですよ」
あっさりと、拒否した。
は、彼の拒否に目をぱちくりした。
「貴方は、孫夫人になられたのでしょう」
陸遜は、当たり前の事を当たり前に述べた。
は、答えられず、ただ目をぱちくりしている。
やがて、二人の間を柔らかい風が走り抜け、
「はい」
からは、幼い笑みが抜け、すぅっと見る間に大人の女性の微笑みを浮かべた。
その笑みをみて、陸遜も、無表情から愛想のいい笑みに、表情を変化させた。
「お付き合いいただいて、感謝いたします。陸大都督。おかげで退屈がまぎれました」
と、。
「それはよろしゅうございました」
と、陸遜。
は優雅にその場を立ち上がり、陸遜は彼女に座したまま拱手した。
「すきだよ」
甘い、甘えるような声がしたが聞き取れず、陸遜は拱手したまま顔を上げた。
それに、はおっとりと微笑み、「では、失礼します」と言って去っていった。
「同盟軍より伝令!」
「何です」
「白桂城、奇襲により陥落したもよう!」
「・・・間に合いませんでしたか。城主は?」
「報告では、奥方と共に自害成されたようです」
「・・・それでは、城はくれてやるしかないようですね」
陸遜の横で、指示を待っていた稜統が報告を受ける陸遜の淡泊な態度に、眉をしかめた。
「おい」
「なんです?・・・ああ、貴方は下がって結構です。ご苦労様でした」
「は!」
奥方とは、の事。
と陸遜が同年の縁で、仲良くしていたことは稜統でも知っている。
「姫様が亡くなったんだぜ?」
「そうですね。これで同盟も白紙に戻りました」
「!てめぇ!」
「?何です?」
「姫様が亡くなったんだぞ!何とも思わないのか!」
陸遜が、稜統の言葉に顔をしかめた。
それは悲しいという表情ではなく、何故そんなことを気にするのかと言う稜統への不可解の表情。
「今はそんなことを言っている暇は無いはずですよ。
確かに、夫人は我らの姫様でした。凱旋後は喪に服すことにしましょう」
言い終わると、これ以上何が不満なのだ、と言わんばかりの視線を稜統に向けた。
稜統はイライラと、しかしそれ以上句を続けられず、
「前線部隊に進行停止の合図を。稜統殿は、東の沿岸沿いに用意してある船で待機してください」
「・・・・承知」
情に流されない軍師は、頼もしくもあり、酷く苛立たしく、また恐ろしくもあった。
「・・・・・」
その夜。戦がひとまず片づいた後の、陸遜の天幕。
唯一人机に地図を広げ、けれど視線は何処か遠いところを無表情に見つめ、頬杖をついていた。
「ちゅーしとけばよかった・・・ですか?」
そう呟くと、頬杖を吐いていない方の手を拳にして、机にたたき付けた。
だん!
だん!
だん!
だん!
だん!
だん!
だん!
何度も何度も。
陸遜もも、呉の為にはどうするのが正しいのかきちんと理解していた。
陸遜の影はであり、の影は陸遜であった。
呉の為になることをするのに、一番不要なのは、心だった。
もし、が男で陸遜が女だったら、は軍議で迷わず陸遜を同盟の贄にすることを提案しただろうし、陸遜もそうとは知っても知らずとも受け入れただろう。
そうだと知っていた。だから、まるで空気のように傍にいても全くの苦痛でなかった。
同じだから。
だん!
だん!
だん!
だん!
だん!
だん!
が結んだ同盟は、最早不要な所まで来ていて、相手方の不名誉で解消しなければならないと、陸遜が策を練っている最中だった。
同盟は解消。贄は死に、相手方が贄を守り通せなかった事に対しての怒りという、人間的感情を利用した不名誉に置いて、呉の大儀は成り立つ。
「すきだったんです・・・」
翌朝。
左手に包帯を巻いた陸大都督は、いつも通りの笑顔で、今後の戦況について指示をしていった。
終
あとがき
お、これは、もしかして、結構夢っぽくね?
イチャラブしてんじゃね?
え?だめ?
そうですか・・・。
読んでくださってありがとうございました!
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