吹き消してから、五劫経っても





















喝采せよ。
友よ、喜劇は終わった。









 柳がカラオケボックスに着くと、皆既に集まっていた。

 口々に歓迎の旨を述べる友人に微笑し、入り口近くに居た幸村に声を掛ける。



「遅れたか?」

「いや、みんながお前より早かっただけだよ」



 噛み合わない会話に柳は納得し、そのまま幸村の横に座る。

「じゃ、蓮二も来たことだし、乾杯といこうじゃないか」



 と言ってグラスを上げる幸村に続いて、各々グラスを持ち上げる。

 柳に、ほい、と丸井がグラスを渡す。「ウーロン茶、勝手に頼んどいたぜぃ」と丸井がウィンクする。

 ウィンクごとグラスを受け取り、礼を述べながら微笑した。



「幸村様18才おめでとう乾杯!」

「「「ゆ、幸村様乾杯!」」」


カン!


 気持ちよく声が重なり、触れ合ったグラス同士が軽やかな音を立てる。

 幸村の音頭に皆がケラケラと笑う。

 グイッと豪快に飲み干す精市に、柳がリモコンを渡す。



「浮かれているな精市」

「あっはは!まあね。みんなと纏まって会えるの久しぶりだし。一貫高の癖に受験なんかクソ食らえだね!あ、弦一郎デュエットしない?」

「む、かまわんが、俺が歌える歌など限られてるぞ」

「付き合い悪いなー。流行歌くらいはチェックしとけよ。来年からお前と俺学部違うんだから、そういうお付き合いフォローとかできないよ?」

「フォローなど頼むつもりは毛頭ない」

「ふーん。じゃ、これいれるよ。よっ、と」



 横でのやり取りを聞きながら、柳はマイクを二つ幸村に渡す。

 流れ出すのは中学の時流行った曲。この場にいる誰もが知ってる曲。

 フードメニューを見ていた丸井も、新曲本を読んでいた切原も、外国曲本を開いている桑原も、携帯をいじっている仁王も、隣の女子にリモコンを渡している柳生も、曲に気付いてふと顔を上げた。

 女子?

 柳だけが違和感に支配され、曲の出だしに乗り遅れた。

 私服のみんなと違って立海の制服を着ているその女子も、曲に気付いてみんなと同様小さく口ずさんでいる。



 柳は彼女をそうよんでいた。

 フルネームは思い出せない。

 付属中男子テニス部のマネージャーだった。

 同級生で。

 三年の終わりの半年間、柳の彼女だった女性だ。

 何故彼女がここにいるのだろう。柳は少し居心地が悪かった。

 柳は彼女を振った。当時はどうしようもない行動だったのだが、今から思えばもう少しやりようはなかったのかと言いたくやるような振り方をした。見苦しい。無様だ。彼女も、自分も。

 柳はなるべく彼女をみないようにした。

 久しぶりの集まりは、大いに盛り上がった。

 幸村の誕生日なんてただの名目なので、時間を忘れるように歌って飲んで食べてはしゃいだ。

 はしゃぎ過ぎてコップが割れた。一瞬空気が冷めるが、罪の擦り付け合いでまた場が沸く。

 そんな宴がしばらく続いた時、歌い終えた丸井がマイクをテーブルに置くと、



「んじゃ、みんな、俺そろそろいくわ」



 そう言い、ドアに手を掛けた。「チャオ」軽く振り返り、二本の指を揃えて額の近くでビシッと決める。

 お茶目な丸井に、皆はバラバラに別れを告げる。大半は次曲の前奏にかき消された。

 丸井は微笑んでドアをくぐった。


(そうだ、ブン太が一番最初だったな)


 丸井が食べ散らかした皿を重ねながら(余り場所をとると、コップの二の舞になりかねない為)、柳の頭にそんな想いがよぎる。



「おや、もう時間ですか」



 丸井からしばらくして、柳生が立ち上がる。

 立ち上がった柳生の腕を隣に居た仁王が掴んで、席に引き戻した。



「仁王くん、何するんですか」

「プリ。次の曲はヤギュのぜよ。それくらい、いいじゃろ?」



 柳生を見ないで仁王は言う。

 曲が始まってしまい、柳生は「仕方ないですね」と優しくため息を吐くと、マイクを受け取って彼の曲を歌った。

 タイミングがタイミングだけに、柳生が歌い終えると皆が拍手した。仁王だけが拍手しなかった。



「では、名残惜しいですが」



 そう言って席を立った柳生を、仁王は今度は止めなかった。

 柳生はドアに手を掛ける。

 少し振り返って「皆さんご機嫌よう、アデュー」と微笑んで出ていった。


(比呂士も意外と早かった)


 仁王は柳生の方を見ず、指先でストローをいじっている。



「仁王」

「なんじゃ、ユッキ」

「拗ねちゃってー可愛いなー」

「…ピヨ」



 幸村がニヤニヤしながらからかうと、仁王はぷいっと顔を背けた。



「ブチョーの手に掛かると、仁王先輩も人の子って感じがするっスね」

「赤也、それどーゆー意味じゃ?」

「うへぁ…ニオ先輩顔がマジっすよ。冗談に決まってるじゃないっスかっ!」

「ふふ。もちろん、赤也が一番可愛いよ。俺たちの一番の後輩だしね」



 にっこりと幸村に言われて、切原は照れて「へへ」と笑った。

 しかしその直後、その顔が何かに気づき「あーっ」と頭を抱えた。



「あーあー…俺そろそろ行かなきゃいけないみたいっス」



 しょんぼりする赤也に、桑原が彼の頭をポンポンと叩き。



「そんな顔するなよ。赤也らしくない。ほら、俺の番だけど、お前に歌わしてやるから」

「え!マジっすか!やーりぃ!実は歌いたかったんすよ、この曲!」

「ジャッカル、お前さんの代わりにこのお調子者しばいちゃろか?」

「な、ん、で!そうなるんスか!」


(赤也…俺より年下の癖に)


「蓮二」


 幸村に声を掛けられて、柳はハッと我に返る。

 相も変わらず手加減を知らない幸村の腕力が、柳の背中をバシッと叩いた。瞬間息が止まって、咳き込む。

 そんな柳に容赦なく、幸村は指先で彼の眉間を押し撫で、無理やり皺をのばす。



「何眉間にしわ寄せてんの。赤也が歌うんだよ。しかめっ面なのは弦一郎だけで十分だよ」

「やめろ精市、眉間が凹む。それと横で弦一郎が泣いているぞ」

「な、泣いてなどいない!」



 やれやれ、と嘆息しながら幸村は手を離す。

 切原の元気な声が最後の音符を歌い上げ「イエイ!」とポーズを決める。



「じゃ、そろそろ行くっス」



 席を立ってドアまで行く。



「赤也」



 幸村が微笑み掛ける。



「愛してるよ」



 赤也が驚いて硬直する。



「俺もじゃよ、悪魔っ子」



 珍しく仁王がそれに続く。



「俺も、そうだな」

「ふん、わざわざ言葉にせんと伝わらんか。たるんどる」



 桑原、真田と続く。

 少し空白があって、柳が「俺もだ」と言った。

 告白された当の本人は、顔を真っ赤にして「気持ち悪いッスよ」と笑って出て行った。



「三人減るだけで、随分寂しくなるもんだね」



 ドアに向かって、幸村がポツリと呟いた。

 もう既に次の曲が始まっていたために、その台詞は幸村とドアの間に座っていた柳にしか聴こえなかった。

 柳は特にコメントしなかった。

 既に、言葉には意味がなかった。

 次に「時間だ」と言ったのは桑原だった。

 柳は内心ため息を吐く。

 彼に対しての落胆の意味でではない。少し、自分自身が落ち込んだだけだ。


(ジャッカルももっと残ると思っていたんだが)



「ジャッカル、もう少しがんばる気はないのかい?」



 幸村が桑原に聞いた。

 柳は驚いて幸村を見た。

 最初からの様子を見ていて、幸村と後多分仁王だけが、この宴の意味をわかっていると思っていた。

 分かっていて、聞いているのだとしたから、滑稽過ぎる。意味がない。もはや手遅れなのだから。

 桑原は幸村の真摯な表情に驚いて、その後少し罰の悪そうな顔をしてから、嬉しそうに笑った。



「幸村にそんなこと言ってもらえるとは思わなかったぜ」

「俺が言わなくても誰かが言ったよ。お前みたいな奴は、最後まで残らせないと気が済まないってね」



 幸村が親愛をこめてウィンクする。

 言葉自体は乱暴だが、好意に満ちている。

 それは今まで帰った誰しもに言いたいことであっただろうが。特に彼に言って置きたかったのだろう。

 それでも、やはり、彼は「行く」と言った。今度は、誰も止めなかった。

 「またな」そう言って人好きする笑顔を残して、桑原はドアを開けて行った。

 暫く沈黙が続いた。リクエストをもらえないボックスは、宣伝を流し始めた。

 ややあって、仁王が「便所いってくる」と席を立った。

 立つとき横にいたの頭をポンポンと叩いた。

 驚いたは仁王を見上げ、泣きそうな顔をして微笑んだ。

 仁王がどんな顔をしてにちょっかいを出したかは、柳からは見えなかった。


(雅治は…そうだったのか、知らなかった)


「仁王、ちょっと聞きたいんだけど」



 腰を浮かせた形で仁王が止まる。顔を幸村に向けて、言葉を待った。



「大学、受験しなかったって?」

「よう知っとるの。怖い怖い」

「なんで?」

「さあ。なんでかのう」

「テニス辞めるの?」

「んー辞めんと思う。テニスなしでも生きていけるが、今のとこテニス以上に楽しいことなんてないしの」

「なんだ。そっか。それならいいや」



 それだけで幸村は納得したように頷いた。

 横にいる真田は憮然とした表情を崩さなかった。昔の彼なら怒鳴っていたとこだろう。



「意外だな」

「?なんじゃ参謀」

「お前が本音を滑らせるなんて、と思ってな」

「ようやっと口を開いたかと思えば相変わらずやの」



 仁王がニヤリと笑った。

 柳も、フッと鼻で笑った。



「お前さん方の、そう言うバランスは好きじゃよ」



 三人を見て、ククッと薄笑いをしたペテン師は「今度こそ便所にいかせてケロ」と言って、ドアに向かう。

 最後に、



「会えて良かったぜ」



 振り返らずに言い残して、ドアをくぐった。

 再び沈黙が場を支配する。

 仁王が戻って来ないことを、この場にいる誰もが知っていた。

 真田が、三人を抱き締めるように、曲を入れた。

 真田が知っている曲を入れると、中学に戻ったような錯覚を覚えるから不思議だ。


(正直、弦一郎はもっと早いかと思っていた)


 質の悪い冗談を考える自分がいる、と柳は無機質に思った。

 実際の時も、ついそう思った。

 幸村は反対意見だった。幸村は、真田に喝采して貰いたい、と言っていた。


『喝采せよ。友よ、喜劇は終わった』

『ベートーベンか。突然どうした?』

『俺が死ぬ時、真田は生きてるのかなって』


 幸村が真田のマイクを奪った。



「お前さぁ、ずるいよ。そんなに大人になっちゃって。その癖勝手に満足して、勝手に置いていってくれてさ」

「精市」



 柳がふて腐れる幸村を窘める。

 言いたくて言えなかったことを言っているのはわかる。けれど、もう無意味だ。

 弦一郎のせいでは、ないのだから。



「蓮二。意味がないなんて言うなよ」

「だが、手遅れだ」

「そうだとしても、俺たちはここにいるだろ」



 幸村は少し怒って、そして奪ったマイクで真田の歌を歌いきった。

 真田は終始無言で、その実少し嬉しそうだった。

 それを目敏く見つけた幸村が、真田に指を突きつける。



「何笑ってるんだよ」

「すまん」

「喜ぶなよ」

「悪かった」

「・・・ああ、もう」



 謝り倒され、毒気が抜けたのか、幸村は椅子に深く座り込んだ。



「だらしないぞ、精市」

「・・・うん」



 そっぽ向く幸村の頭を真田は軽くひっぱたいて、席を立った。

 幸村は無反応だった。



「ではな」



 ドアに手をかける真田に、柳が声をかけた。



「弦一郎」

「なんだ」

「お前は、良い男だった」



 そう言って、数回拍手した。

 真田は「くだらんことを」と口では言いながら、嬉しそうに口元を綻ばせた。

 現実で、やれなかったこと。

 手遅れで、意味はない。けれど、ここにいるのなら。

 幸村も「喝采してやるよ」と手を力なく数回叩いた。

 それを見やって、真田はドアを潜っていった。


(精市は見かけに寄らず最後まで残った)



「精市」

「んー?」

「お前も、勝手に満足して、勝手に置いていってくれたな」



 柳の言葉に、やぶ蛇、と幸村が苦笑いを作る。



「まあね。でも、満足度ではお互い様だと思うよ」

「・・・そうかもしれないな」

「悪くない人生だった」

「ああ、その通りだ」

「ねえ、ちゃん」



 急に呼ばれたは、驚いて幸村を見た。



「俺らはさ、結構君に会いたかったよ」



 続けて、「その点では、ちょっと蓮二を恨んだね」と肩を竦めた。

 目を見開いたまま凍り付いたは、ややあって少し視線を下に向け「ありがと」と小さくつぶやいた。



「精市」

「ん?」

「お前の18の誕生日に、はここにいないはずだ」



 ずっと言えずにいた違和感を、柳は幸村に聞いた。

 幸村は、「なんだそんなことか」と言いたげに、ふわりと笑った。



「お前が呼んだんだろ?蓮二」

「俺は」

「悪いけど、俺もそろそろ時間なんだ」

「・・・・・・・・」

「勝手で悪いね。でも置いてくよ。お前と心中する気にはなれないね」

「随分だな。誰とならいいんだ?」

「誰と?ははっ。そうだね。誰だろうね。誰でも嫌だったかな。悪い意味じゃなくてね」



 ぴょこんと、幸村は立ち上がる。



「見送りは派手な方が望ましかったけど、蓮二だしね、文句はないな」

「弦一郎が良かったんじゃなかったのか」

「・・・ああ、そんなこと言ったよね。あの時は、弦一郎なら泣かないんじゃないかって思ってたんだけど。実際この年になると、感情って動かないよね」



 そう言ってドアに手をかける。

 仕方がないので、柳は拍手する。も釣られて拍手をした。



「じゃあね」



 まるでまた明日会うかのように、にっこりと笑って、彼は去っていった。

 そして、部屋に柳とだけが残った。



「ええと・・・今更だけど、久しぶり?」

「ああ」

「変わってないっていうのは失礼かな」

「そう言うと言うことは、ここがどこだかわかっているんだな」

「概念的には。なんだろ。説明はし辛いね。三途の川のほとり?」

「まあ、そんなところだろうな」



 そこに、居る。

 まだ、ここに死人が居る。

 だから、同窓会は終わっていない。



「・・・すまなかった」



 会話の糸口が掴めず、今まで言いたくて言えなかった言葉を口にした。

 はそれに苦笑いをする。



「蓮二が謝る必要ないよ。それはむしろ私の役目」



 柳は何も言えず黙り込む。は、しょうがないな、と笑う。

 彼女は沈黙を縫うように、ストローを持ってグラスをかき回す。カラカランと、氷が涼やかな音を立てる。



「皆、早いよね」

「そうだな」

「置いてかれるとは、思わなかった」

「…そうだな」



 ブン太は、大学の頃交通事故で亡くなった。

 比呂士は、過労死。三十を幾つか過ぎた辺りだった。

 赤也は、風邪を変な風に拗らせて亡くなった。六十かそれくらいだった。

 ジャッカルも過労死だったのではないかと思う。本国に帰ってから、年に一度会うくらいで、手紙の返事のかわりに訃報が届いた。七十は過ぎていたと思う。

 仁王は高校卒業からどこかへ行ってしまった。一年に一度(あれば良い方)思い出したかのように、フラッと現れまた消える。彼がいつどこでどのように亡くなったのか俺は知らない。

 弦一郎は、多分老衰。爺になっても相変わらずだった。そっくりな孫がいたのには笑ったものだ。

 精市もそうだった。曾孫を見せてもらった時には、お互い年を取りすぎたなと笑いあった。

 そして。

 ハル子とは別れてから一度も会っていない。


 まあね、とが話を一つ前に戻した。



「そりゃあ当時は恨んだよ。なんで捨てるの!ってね。色んな意味で惨めよね」

「すまなかった」

「二回目だけど、蓮二が謝る必要はないと思う…あの頃の私は蓮二が好きすぎちゃって…少し頭がおかしかったんだよね」

「重たかった」

「そうね、私もそう思う。お互い悪かったね」

「そうだな。お互い」



 そこで話が一端途切れた。

 気まずいわけではない。穏やかな雰囲気だった。静かな浜辺を歩いているような。

 ゆっくり言葉を選んでいるのだ。

 ここにいる以上、話足りると言うことはないけれど。

 ふぅ、と息を吐くのそれは、どこか深呼吸に似ていた。



「結婚、したんでしょ?」



 今まで歩いてきた人生に、後悔はない。

 時折、遠い昔の出来事を懺悔したくなることはあるが、それだけだ。

 戻りたいと切望するほど、悪くはなかった。



「ああ」

「子供何人?」

「男と女が一人ずつ」

「じゃあ孫も多いね」

「そうだな。は?」

「したよ」

「子供は?」

「女の子二人。難産で大変だった」

「その変の苦労は俺には分からないな」

「それは残念ね。勿体無い」

「全くだ」



 クスクスと笑い合う。

 今の二人の姿には大凡似つかわしくない会話だった。

「それにしても、覚えていてくれるなんて」とが意地悪く笑った。



「気に病んでくれてたんだ」

「無意識に心のどこかで後悔してたんだろう。正直、顔は覚えていても、フルネームが出てこなかった」

「私も。なんでだろうね」



 あれから、随分時間がたった。

 顔を覚えているのすら、不思議なほどだった。

 きっとあれはお互いにとって、初めての恋で、初めて恋で傷ついた出来事だったのだろう。

 初めてできた深い轍。

 けれど、それは時折思い出す懺悔には含まれていなかった。

 もっと無意識の奥の奥。日常の行動の些細な部分に影響するような、教訓としてできた轍だ。

 よくよく思い出せば、うまくいかないことばかりで、哀れとも思うような想い。



「でも、最後に私を呼んでくれてありがとう」



 呼んだのは蓮二かもしれない。けれど、来たのはの意志だ。

 あれから十分すぎるほどの時間がたった。

 お互い、いくつも恋をして、破れ、あるいは実り、結婚して、子供、孫もできた。

 ここに時間など存在しないから、もしかしたらが蓮二のところへ来たのは、全部が終わった後かもしれないが、それでも、彼女は蓮二のところへきた。



「じゃあ、私いくね」



 咄嗟に、立ち上がった彼女の手をパシッと掴む。

 どしてだろう。今の体が、彼女との別れ方に後悔している時のものだからだろうか。引き留めるなどと。逝くという言葉が、辛いなどと。

 無駄なことなのに。話し足りることなどないのに。



「逝くな」



 は柳を振り返る。

 ふんわり笑って首を振った。



「ありがとう蓮二。でもこればっかりはしょうがないよ」



 晴れやかな笑顔だ。



「私は結婚したよ。子供もできた。孫もできた。私は幸せだよ。蓮二は?」

「俺も、幸せだ」

「じゃあ、後少しだろうけど、残りの人生は、目の前だけ見て過ごしてみなよ」



「柳はさ、過去や未来を気にしすぎなんだよ」、と思い出すようには目を閉じた。

「だから」、と目を開ける。



「私が約80年前に施した呪いを解いてあげる」



 カラオケボックスが教室に変わった。

 柳もハルハラも付属中の制服をきている。

 別れた場所はここじゃない。面と向かって別れを言うことすら当時の自分には億劫だった。

 しかし、彼女と最後に会ったのはここ。



「蓮二」



 当時のまま。顔を綻ばせる。



「ありがとう」



 そう言うと、スカートを翻して、彼女は走って教室を出た。

























「おかーさん、おじいちゃん泣いてるよ」

「え?・・・でも、笑っているわね。いい夢を見ているのかしら?」



 白い病室に吹き込む風は、いつか皆で感じた熱望と喝采の色。

 誰もこの世からいなくなっても、それでも皆の存在は色濃く世界に残っている。
















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あとがき

 少し、書き足りない部分も多いですが。
 先々月ほど、昔の友人たちと飲みに行ったのですが、当時の話をすればするほど、何故か悲しかったです。
 いいことばかりではなく、当時なりに悩んで泣いて、人生を呪っていた筈なのですが。
 それで、という訳ではないのですが。
 何というか、あのメンバーで最後に残されるのは、柳だと思うんですよ。
 で、仁王はどっかで野垂れ死ぬといい。(惨い)
 冒頭のベートーヴェンの言葉は、実際喝采する方はたまったもんじゃないよ!とか思ったりもしないんですが、でも、喝采してもらいたい気持ちはわからないでもないですね。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。